細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

『シン・ゴジラ』『この世界の片隅に』がヒットする安易な「復興」ではなく、事実に立った茨の道を切り開け。

昨年大ヒットした『シン・ゴジラ』と『この世界の片隅に』は、前者は放射能汚染からの楽観的復興、後者は戦争と原爆を加害者意識ではなく、災害として過ごし戦後を迎え復興を始める映画として、私は見ていて、徹底的に批判しているが、賛同者は少ない。

前者の官僚エリートからの災害管理の眼差しは目新しいが、日本社会が官僚エリートにしか支え切れぬものと居直って描かれた感しかない。

後者は、主人公が見合い結婚する女性で、さらに暮らしより絵にこだわりを持つ独自のペースの人、つまりマイノリティであるにも関わらず、主人公のつまずきは、すべて主人公の鈍臭さに帰責されほのぼの笑われるという多数派視点が鼻につかざるをえなかった。


復興を楽観的に描くのが嫌だとか、マイノリティや女性に対するしっかりした描写を求める点、私の見方は、厳しすぎると言われるかもしれない。

しかし戦後復興をその負の側面、見失ったものまで、見透さないかぎり、今後日本社会が原発をやめたり、戦争をせず、平和な社会であることは不可能である。
また、私は、この6年間徹底的に官僚主導の安全論による復興を批判してきた。
シン・ゴジラ』には、官僚に対する冷めた目はあるが、批判はない。
根底的な批判によって、放射能汚染に向かいあい、一人ひとりの権利の回復を求めたい私に取り『シン・ゴジラ』は、許して通せる映画ではなかった。

また、『この世界の片隅に』のすずの造形は、発達障害と診断され、マイペースに生きざるを得ない私からして、その微温性は不快ですらあった。

未曾有の破局と差別という今後私たちが向かい合わなければならない課題に、不十分な解答しか出せない映画が、大ヒットするのは、これが私たちの現状だとおもう。
私たちは今の現状に、鋭いメスを入れ、深層をえぐり出すより、良くも悪くも、破局の核心を見ることを避けている。
黒澤明今村昌平がエンターテイメントの中で放射能や原爆を辛辣に描いた到達点、はだしのゲンゴジラ映画の到達点を考えるなら、この大ヒット2作は映像的には丁寧で工夫があるとはいえ、哲学において、不足を感じるわけで、安易な激賞は、これまでの日本映画の到達を忘れた若干やりすぎなものを感じないわけにはいかない。

 

それに比べ、瀬戸内寂聴原作の『花芯』は、非常に優れているわけではないが、女性がパートナーを選べない見合い結婚の時代に、女性にとって、意に沿わない相手との性行為の苦痛、虚無を描いてあまりある。

また、夫ではない、男性と恋に落ち、その性行為にも満たされぬものをかんじ、たぶん、自分とは何かの問いに立った女性の姿。

この題材を監督が選んだには、今の時代ですら、私たちは自由な人間的関係にたどり着いていないという直感があるわけで、そこに悪意や皮肉に見えるまでの監督の批判性の刃を感じた。

何より『シン・ゴジラ』や『この世界の片隅に』のように、見た後、疲れや満たされなさではない、不思議な爽やかさがあった。

 

映画は優れて、快楽を深めなければならないのだ。