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細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

放射能汚染の影響について言えること、言えないこと、あるいは私のできること、できないこと

放射能汚染による被ばく影響は色々ありそうだと思っています。
ただ、私には調査技術がなく、そのツテもない単なる障害のある市民なので、考えられるかなとは言えても、確定的な断言ができない。
その技術がある人が調べてほしいし、医療問題研究会や津田敏秀教授はやってますが、ごく少数で厳しい。

というふうにここんとこずーっと書いていて、つまり原発事故の影響の安全危険を判定する前の現状把握がこの日本には足りてないんですが、そういう指摘をする人が少ないのが嘆かわしいです。

私は最近、疫学的科学的検証の必要性を主張していて、それは現状を判断するデータや分析の蓄積がなければ、安全危険以前に話が浮いてしまうからですが、科学的検証というと安全論者みたいにみる人がいるみたい。
違います。データがないのに憶測ばっかりでモノを言ったって誰も助からないから。。

放射能談義をして、ツイッターで、殴り合いをしても、何にも動いてないし世の中も変わってないのがわかる。だから私は運動や学習会に参加して、比較的まともな論説を取り上げて紹介する。
専門家でも金持ちでも政治家でもない私にはそれくらいが限界です。

原爆被ばくの実像も、当時の資料の掘り起こし、体験の聞き取り、語り継ぎ、運動と訴訟という事実ベースで進んでいて、着実に国の安全論をひっくり返している。
ある時からこれをモデルにした方がと思いました。
歴史に学ぶということです。

逆に問いたいんですけど、皆さん自分の活動が例えば原発事故の被害者の境遇や実態解明に本当に繋がっているのか、自信がなくなる時はありませんか?私はあります。わずかな極めて間接的なことしかできない。
自分の非力や不徹底もあるかもしれない。しかしそう考えてリアリティがやっと確保される。

自分が大海に砂を投げてるようなことしかできてないなあと思います。
でも、私は歴史や世界に比べ本当に大海の砂だから。
しかし大海の砂の私は1人の人間でもあります。
この時代に生きる私を大事にしながら本気で考えるだけ考える。逆に無理はしない。これしかありません。