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細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

「感じられる手」、中立とは何か、経験の喪失とは何か

@katoshuichi_bot

対立する意見や言い分の双方を聞いて、事により、場合に応じて、みずから考え、みずから意見を作り、みずから言い分を主張することができる。…個人において内面化された中立主義は、精神の自由ということである。「中立主義再考」『山中人閒話・夕陽妄語 1』
https://twitter.com/katoshuichi_bot/status/772460313140527105

加藤周一の言葉である。

中立というとすっかり悪い意味になってしまったが、違うのである。毎回ケースに即して自分の位置を具体的に柔軟に考え、それをしっかり覚えているということが中立で、中立はわかりにくいが実は曖昧ではない。

また林達夫のこのような言葉もある。

@HayashiTatuobot

今日ほど、真の中庸の道を歩むことのむずかしく、それにもかかわらずまたそれの必要なときもないことがわかる。中庸の道とはもちろん現状維持のことではなく、革命にさえそれはあるのだ。それは折衷でも妥協でもなく、いちばん思慮と勇気の要る道なのだ。

https://twitter.com/hayashitatuobot/status/767560404927066112

 

私が20代の頃幾つか批評を読んで感じたこと、それは、具体的なモノやコトと自分との関係を正確に測る営みであるということ、態度を決められない、わからないということの内実まで言葉にすることであった。


花田清輝のような一見難解な文章にも、彼が時代や世界と戦って負ってしまった傷の生々しさを見ないではいられなかった。花田清輝は、ライバルであった吉本のようにあからさまでなく、しかし見かけは高邁なため負った傷は深いと見ていた。深い傷はしばしば仮面をつけてあらわれる。

 

さて。

自分の知ってることではなく、取り組んでどうしてもわからないことをしっかりかければ、それは批評になる。
しかしtwitterにも新聞にも批評はない。
ただ人々は見える範囲の中で、自分の考えや裁量の否定と承認だけを積み重ねているようだ。
それは思考でも観察でもなく、反応である。


私たちは反応だけでしか考えや行いをできなくなった。政治党派にかかわらず極めて操作されやすい状態である。仔細で微妙に揺れながら、1つ1つを精一杯判断して、区切っていく不安と安寧に耐えられないのだ。

 

さいきんほんとうにたまらない気持ちになっている。反応や反応の遅れや、グループやグループからの逸脱しか、見られない。生きている1人の魂が世界と関係を切り結ぼうと震え喜び悲しみ高まるというのをみない。

私は自立した感覚やこころは、モノやコトとの一回的な具体的な関係性を積み重ねて、頼りなくても曖昧に見えても独自なカーブを切り開くものとみている。

中原中也はいった。手というものをちゃんと感じられていればそれでいいのだ。手とは、感覚し感覚されるものであり、世界を切り開き、内包し、世界に切り開かれ、世界に内包されているたった1つの、あなたの私の手である。

「『これが手だ』と、『手』という名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてゐればよい。」
中原中也『芸術論覚え書き』

名前とか、言葉になる以前から、言葉になってしまった後も「手」の意味内容を支えているのは、手を深く感じていることだ。
手でなくてもいいが、私たちがこの世界に人間として生きる限り、手や、皿や、母や、友や、空や木々にも、この「深く感じている」ことがないと、生きてはいけない。
むろん世の人はそれを強く自覚はしないがそれを生きている。
しかし、モノを書く、考えることに取り憑かれた人間は、それを改めて書く中で体験し直さなくてはならない。
私たちはスマートフォンSNSの中で知らず知らず書く人になっているわけであり、知らず知らずに、当たり前の経験を経験として支える中原中也の「手」のようなものを、新たに感じ直さなくてはならなくなった。
この「手」がバーチャルな世界に回収されるか、誰も容易には触れ得ない個的な世界に至るかはそれぞれだが、政治なり経験なりを成り立たせるには「手を深く感じる」と同じ働きが必要だ。

実は私たちは政治のはるか手前で日々反応に忙殺され、中原中也のいう「手」を失っている。
この喪失は、世界を経験し私を私足らしめる実質の喪失に等しい。
むろん喪失の度合いは様々だが、当たり前のものを新たに深く感じ直す時間は単なる反応からは生まれ得ないだろう。

私たちは一人一人が、世界に対して空白やズレとして立ち現れている、立ち現れざるをえないということを思い出そう。
私があなたに対してズレであるから、私はあなたと喧嘩をしたり結びつこうと思ったりするのだ。
言語は私たちが関わりを求めてさまよい途方にくれた人類的経験の証である。
私たちは反応から生じる生き生きとした電子的、集団的砂漠から離れ、ただ1人の異物として、関係を再活性化せねばならない。
私たちはそのように深く損なわれているのですね。