細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

【詩作品】音楽の井戸

この音楽を聞いてください。

聞いてくださいとお願いしてしまった。

お願いする恥ずかしさをまず生きなければならない。

少し待ってください。深呼吸させてください。

息継ぎが下手なので、地上で息継ぎが下手なので

姿勢をしっかり維持する必要があります。

例えばこの私という存在を金科玉条拘留伝統の、暗い症名であると

お考えくださらなくて結構です

なんだっけ。はあ。

私を一つの音楽だと仮定してお聞きください。

奏でる前にこの存在が震えだして破裂しそう。

大好きであることは大嫌いである。

私をひとつの、例えばまあ音楽だとお考えください。

聞くということと、考えるということの間にある違いは大きい。

しかし聞くということの中にも考えるという動作は含まれているであろうし

考えるという動作の、横にも聞くという行いは寄り添いうるであろう。

まず自分が複数の旋律であらわされるものである。

リズムとかメロディという言葉の意味がいまだにちゃんと覚えられないままに

音楽という言葉を使ってしまっている。


そしてこういう自分が面倒くさくなり自分を五体投地したくなるです。
五体投地した先に誰もないのですよ。

私の脳内がさざめきざわめき沸騰し激しい頭痛が神経の嘆きとして

血管をひどく広げるとき
私は少し寝てもいいですか

誰にともなく許可を求めます。
寝ても痛いです。
起きても痛いです。
その度に許可申請。


常にそういえば許可を求めるのであった。
許可をするもなにも寝たり起きたりすればいいのに
当たり前に行為を承認する装置が自分の中に欠け落ちているかのように
だからこそ外部世界の奴隷でしかないように
だからこそいつも自分自身がないかのように
許可を求めて許可を求める己を恥じ
もっとしっかりしろと
ただ息をし寝起きするようなことどもに対して
必要以上の許可を申請し
申請する行為で疲れ果て
疲労に拘留され
娑婆世界の交流とは別の人外を生きているような気がするのだった。



これらは観念的な問題ではない。
現在私は戦おうとしているのであったが戦いをやめないと
戦いに勝利し本質的な闘争に至れないのであった。

しかしすでに古い神がこの世界の本質とともに
古い宇宙へ放擲されてしまったので
私は具体性をこの身体にぎっしり詰め込んだまま
世界や人間への跳躍を
跳躍を通じた、コミュニケーションという名の
不可解をこなすことができないのであった。

最近口角をあげて、コンビニや本屋や薬局で店員と向かい合うと
それが誰であろうと相手の店員はにこやかにしていることに気付いたのであった。
それを理解したのは最近のことであった。

もちろん店員という概念や店員という実在は理解していたのであったが
店員が交流できる人間としての実在性を持った実体だと本当に理解したのは
最近のことであろう。

買い物がとても苦手だったので店員に声をかけられると逃げていた。
20代や30台になると横柄な人間になり、店員に話しかけ
自分がひとかどの人物であるかのように演技することはできたのであった。
もちろんそれでももしかしたら許されるのかもしれなかった。

しかし私は飢えていた。
自分の中がいつも欠けているのであった。
欠けているから非常に不安であり
欠けているということが理解できないでいる。
なぜなら欠けているという認識を脱するには
欠けているとかいないとかその場所以外に出て
新たな認識を獲得せねばならないが
私は欠けているという以外にないのだった。

あなたは欠けていない、ちゃんとした人間だ自信を持ちなさいという人もあれば
あなたは甘えている、さぼっているだけだという人もいた

しかし私はいつも必死でいつも欠けているのだが
いつも必死でいつも欠けているためにひどくみっともなく
みじめに感じられるのだった。

これまでたくさんの人と親しくしたり喧嘩したりしてきた。
そのたびに自分の限界という瀬戸際までの距離の短さを感じないではいられなかった。

私は、本当にさびしかった。
いつも違うといい
人を傷つけてばかりだ。

楽になれればいいねといってもらい
死ぬような思いをしてきたんだねといってもらえた。
しかし、私よりもきっと苦労してきたであろう人々に
そういわせてしまう私自身のこれはなんであろうか。

哲学的に考えなくていいとワーカーがいい
医師には性格は変わらないから具体的に行動を変えることですといわれ
私はその通りだ全くその通りだと思いながら意地でもそれに反抗したいと
思ってしまう。

罪深い。
罪深いと感じる自分自身の傲慢さがそこにはまだ残っている。

子供のころは、近所のこと鬼ごっこやトランプもしたが
メンコもビー玉もできなかった。大縄跳びに入れず
水泳ではいつも溺れながら、死ぬ思いで進んでいた。
リレーで走り方を同級生に教えてもらって何度も練習したら
少しだけ早くなったが遅いままであることには変わりなかった。

雨が降っていても校庭に行き、水に沈みつつある砂遊び場で遊んでいた。

私は砂遊びの愛好家であったし
鉛筆デッサンが大好きであった。
しかし本当に集団というものが怖い。
怖いのに入ろうとすると必ず嫌われていない時でさえ
頭痛や疲労が襲ってくる。

気を使っていなくても音や人の笑い声だけで船酔いしているような状態になるのは
なぜだろう。
もっと安心していきたいと思う。

本屋とかそういう場所でも疲れるのだが
本は比較しないし本は私を叱らない。
ただ、本は私に、いろいろな示唆を与え世界という象徴記号の渦であるものに
形を与えてくれる。

自分にとって世界は非常にノイジーで、非常によくわからないので
それを知らなければこのダンジョンは抜け出せないと思う。

今世界はダンジョンですらないかもしれないのに
この謎を解け、世界の謎を解けといわれているようで不安で仕方がない。
たぶんそれが私の心を落ち着かせなくさせ、
私の心を縛り付け
私の心に方向と使命を与えているものであろう。

私は世界と何らの安心の膜なしに正対している。
だから東日本大震災が起きようと
原発が爆発しようと
それは自分が精神病になったことや
いじめられたことや
人を好きになり人を怒らせたことと
同じカタストロフィーなのである。
もちろんそれはいいすぎかもしれないが
私には安心の膜がない。

だから安心を求めて、不安心の砂漠をさまようわけであるし
わずかな水を飲みほしてその泉を枯らせるような
バカげた真似をしているのだ。

自分に泉がわかないか枯れ井戸に水がわかないかと思う。
自分は枯れ井戸でもなく水でもない。

しかし自分は水でできており、枯れ井戸のように垂直に筒抜けている
そういう馬鹿である。
馬鹿というなかれしかし馬鹿なのだ。

それくらいにはまっすぐではない。
まっすぐであっていいのだと思う。
まっすぐに進めば迷った森も出られるとデカルトは言ったではないか
それを採用試験の作文に書いて落とされたではないか。

あの朝を忘れない。
どの朝か覚えていない。
生きているし生きていない。

生きていないことをいつも悔しがり
虫や葉や犬や雨粒のことがうらやましい。

大悲心である。意味わからず言っている。

悲しいし、少し戸惑っている。