本当はもっと楽になりたい―自閉症スペクトラムのこと
私は自分が発達障害であるとわかったことをブログに書こうか迷っていました。それはそもそも私のことに多くの人が興味を持ってくれるかわからないからで、さらに興味を持ってくれても正しく理解してもらえるかわからないからで、そもそも自分も発達障害について理解できていなかったからです。
で、いま理解できているかというとどこまで行っても何が正解かはわからないです。それにしても発達障害について論じられている本はたくさん読みました。たくさんといっても20冊とかそれくらいだからたぶんもっと読んでいる方はいるでしょう。研究者みたいにブログを書いている方もたくさんいます。
そもそも私は精神科に通っていました。それで、治療をしてもあるところで全然よくならない地点があるということ、もうひとつは「元気なころの自分」がわからないのでした。
治療をしても、日々の倦怠感・疲労感・絶望感みたいなものはとれません。どうしてこんなにだるいのかと思いました。先生に相談しても先生はよくなっているといいます。ですから「元気なころの自分がわからない」にも関わりますが、もともと自分はしんどい人ではなかったのかと思い当たったのです。
昨年の夏ごろ発達障害の本を読みました。で、これかもしれないと思ったのです。
そのさらに前の年に長く付き合っていた人と分かれ、そのあと付き合った人とも別れていました。
誰と付き合っても何をしていても根本にある不全感がうまらない。しかもその正体が全く分からない。他人のせいにしてもどうにもならない。そこまで私は煮詰まっていたのでした。
そこで、「あ、自分が当たり前だと思ったりしたりしていることが苦しみの原因ではないか」と思いいたりました。
「当たり前のこと」は注目しがたいです。自分が朝起きてから眠るまで、人はそこで自分が歯磨きしたり、ご飯を食べたり、外に出かけたりすることの中に不都合があるなんて思いません。
だってそれは「当たり前なはずな自分自身」なのですから。
それで、昨年の秋くらいに悶々として涙が出そうになってきました。
先生にどう相談していいかわからず情けないことに母親に相談したのです。
母親は「自分が思っていることを先生にいいなさい。いわないとわからへんよ」といいました。
私は「思っていることをこそ、ちゃんといわない」人なのでした。
いろいろなことをおしゃべりできますが肝心なことをしゃべることができない人なのでした。
それまで先生と10年近く診察してもらっていて、自分はなかなか自分の気持ちを話すのが下手でした。恥ずかしがっているとか緊張するだけでなく本当に下手なのです。
友達や恋人にも自分の肝心なことが話せません。
話すとわけのわからない泣き言になったり、どうでもいい話になったり、そういう話ばかり延々と出てくるのです。
ですから先生にも自分の内情を話すのが下手です。カウンセラーとほとんど目を合わせられないまま何年も相談に通っていたこともあります。
そういうこと自体が自分の悩みではないかと気づいたのです。
先生にいろいろ思いをぶつけてみました。
先生はいいました。「整理しましょう。私は医者です。あなたは医者である私に何をしてほしいですか」と。
今考えれば私の障害の特性を踏まえた非常に明快な質問だったと思います。
それで私は答えました。
「あのう、検査をしてください」と。
それでいろいろ心理検査もしてみたところ先生曰く
「発達障害ではないかなあ」といいました。
私はよくわからないのである時聞いてみました。
「それは知的障害を伴わない自閉症スペクトラム障害と考えていいですか」
先生「そうです。これはその人の特性であり病気ではありません。だから自分の取り扱い方を覚えていくしかないのです。そうです。「取扱説明書」みたいなものを作ったらいいのだと思います」と。
で、説明書はどう作っていいかわからないので、先生に手掛かりはないですか
と聞きました。
先生は言いました。
「では発達障害者相談支援センターに行ってみてはいかがでしょうか」と。
で、三か月くらいそこに行きました。
そこでは三つ組の障害というローナウィングという研究者の考え方に従い、自分の得意なこと苦手なこと、特性についてまとめる作業をしました。
そこで、ワーカーさんは言いました。
「あなたは、社会性の障害とコミュニケーションの障害はあまり強くありません。あなた自身ものすごく苦労をして、自分なりに考え、人と話したり表現する術は何とか身に着けたのでしょう。ただ、想像力の問題はあります。相手の気持ちを正確に読み取ったりするのが苦手です。そしてそれゆえのこだわりのようなものもあります」と。
この観察はとても適格だと思っています。私の父もマイペースで頑固ですが、人と話すことはできます。伝え方はものすごく不器用ですが、明るい人なのです。私も人とは関わりたい人のようなのです。
それどころかものすごく寂しがり屋です。
寂しがり屋なのに「相手の気持ちを正確に読み取ったりするのが苦手」というのは、太陽をたくさん必要としているのに、太陽から光合成をするのが苦手な植物のようです。
このことがおびただしい苦しみをもたらしているようなのです。
光合成が苦手ながら、わずかな栄養で、私は自分の特異な社会性を磨いてきました。
詩を書いたのはそのためではないかと思います。
人づきあいも苦手です。
人は好きなのですが長時間の話とか仕事場に定着するとか、学校で友達を作るなどが本当にしんどいです。
想像力に偏りがあるので、相手の話をものすごく特異な形で読み取って気疲れしてしまいます。世の中は私に合わせて明快な形であなたを歓迎しているとかしていないとかいいません。最近は読み取るパターンが増えてきたので、大きな間違いは減ってきましたが、かつては本当にわかりませんでした。
それゆえ、子供のころは被害妄想がひどくなり、そしてまたドン臭いくせにマイペースなので本当にいじめられ、生きる気力は20を前にほとんどなくなって自殺を考えたほどでした。そのあと福祉の仕事をしますが、そこでも大人同士の複雑なやり取りに頭がパンクし、激務も災いし、さらに精神病をこじらせていきました。
そういう中で絞り出すように詩を書いたりTwitterやブログをやって何とか凌いできました。
原発事故が起きた後は、少し調べたり考えたりすることが得意だったためか、放射能汚染について考え調査する中で、友人の本に一文を載せることもできました。
独特な感性ゆえに、面白がられることもありますが、やはり苦しいです。
本当はもっと楽になりたいです。
ではまた。