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細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

大阪府市ダブル首長選挙に思う-既成の枠をどう乗り越えるか

私はこの8年間、大阪維新の会の政治についてその危険性について警鐘を鳴らし、批判してきました。このブログでも多くの記事を書きました。

それについてまず一通り書いてから次の話題に参りましょう。

そして新たな市民自治を展望したい。しかしそこまではなかなか屈折があるでしょう。

 

8年前になぜおかしいと思ったかというと、国際児童文学館の廃止を橋下徹知事(当時)がぶちあげ、児童文学館の職員の働きぶりを見るという名目で「秘書にカメラを持たせ児童文学館内の隠し撮り」をさせていたということがわかったときです。

知事が部下の働きぶりを隠し撮りをする、この陰湿さというか公務員への徹底的な不信は私には監視社会みたいに見えてきわめておぞましく、その評価をめぐって家族と口喧嘩をしたほどでした。

その後私の予感は的中し、市民の公務員不信を追い風にして、大阪市長になった橋下氏は市役所職員に入れ墨をしているかどうか調べたり、思想信条をアンケートしたり、果ては盟友の中原氏が「君が代」を歌っているか「口元チェック」をしたり、その中原氏を同じ維新の松井知事は教育長につけ、中原氏は教育長の地位で、教育委員たちにパワハラをして、府議会や府下市町村からの辞職を求める声が高まり辞職したということがありました。

敵対する政治勢力や新聞社、学者、一般市民までその攻撃は及びました。

さらに大阪都構想では、大阪市そのものを廃止して大阪府に合体させ、大阪市の独自財源は大幅に低下するという論理的には理解不能な改革案を提示し、あらゆる(それはどうなのかと思われるような)手段を使った政治工作で住民投票に持ち込み、敗北しました。

敗北すれば政界を引退するといい、引退するのかなと思えば、新たな政治組織を立ち上げたり、現在行われているダブル首長選挙では、吉村市長候補、松井府知事候補よりも候補者当人たちよりも雄弁に、選挙演説をしています。

 

このように抗争と抑圧に明け暮れた維新政治の中で、橋下氏肝いりで導入された公募区長制度や高校入試改革、中学給食など市民に直結する行政サービス分野でも、公募区長は問題行動により多くの区長が辞め、高校入試もその形がいつまでも定まらず、中学給食はまずいといわれてしまっています。

他の行財政改革の中で、特に病院の統合廃止、福祉財源の削減、民営化なども議会で絶えざる反対にあい、そのたびに維新は強硬な政治姿勢を示し、政治的停滞をしています。

WTCは第二府庁舎になりましたが耐震性に問題が指摘されたままです。また、橋下氏が退任時、財政をよくしたと胸を張ったはずの大阪府財政は、悪化しました。その後「起債許可団体」という団体になりました。そう遠くない将来、夕張市のように財政健全化団体に転落することもありうる状況になってきました。

他にも橋下市長の秘書の不透明な勤務実態、交通局長なども含めた人事面での失敗、維新の所属議員の不祥事まで含めれば大阪維新が改革者とは到底いいがたいというのは明らかだと思います。

 

このように政策において負の側面を並べていくならば、特に財政と教育福祉分野における失政は明らかで、他の知事市長がこのようなことをしたならば、すぐに首が飛ぶはずです。

私自身維新の松井橋下という二人の首長は、政治的責任を取るべきとずっと主張してきました。

  • 大阪維新を支持する人々ーマジョリティの問題

 

しかし反維新の方や、事実ベースで判断する方にはすんなり通じる話だけでは、維新が都構想(特別区設置協定)の住民投票に敗北した今もなぜ一定の政治的支持を大阪府民、市民の間に保っているのかを説明できません。

私はいよいよこの問題を反維新の方々も広く大阪の方々もよくよく深刻に考えるべきではないかと思っています。

なぜ失政が明らかなのに人気が維持されているのか。マスメディアの維新礼賛や維新による圧力もあるのですがたぶんそれだけではない。大阪の人々の一定数の方々の中に、どんなことがあっても維新を支持してしまうような心理が定着している可能性がある。これは政治心理学的に重大なことです。

それは恐らく、橋下以前の大阪市長がいくつかの改革を成し遂げたにもかかわらずあまり知られていないことがあるでしょう。しかしそういう「事実が伝わっていない」というレベルだけではなく、感覚的に「市民からお役所は遠く何をやっているかわからないし、うまくアクセスできない不満がある」「教育委員会も学校教師も何をやっているかよくわからないし、子供のことは不安である」「これらの機関は税金を使っているのにどのように成果が出ているかわからない。何か隠しているのか」という多数派の市民の感覚に、維新の相当荒っぽい公務員や学校現場への糾弾が市民に受けてしまったということがあるでしょう。この市民の所得階層は様々で、富裕層から貧しい人までいるのだろうと推測します。

それから維新自体は自民党からの分派であるにもかかわらず、橋下氏という正解と無縁な芸能人弁護士を立てたために、あたかも無党派であるように見えたということもあるでしょう。実際は既成政党が立てた太田知事の失策が目立ったため相対的に橋下氏が浮き上がってきたというだけでもあるのですが、既成政党への挑戦と公務員の制度への過激な切り込みが改革者のように見えてしまいました。小泉自民現象とよく似ています。

 

橋下氏たちはそこで、市民の公務員への不信を盾に、ネオリベラリズム的な成果主義と「市民に選ばれた首長への服従」を行政システムに注入していきました。

それは失敗や不具合が明らかになってきましたが、維新を選んだ市民はそれを認めるわけにはいかないという場所に立ち至っているのではないか。

そしてこれはマジョリティの保守的市民の、頑張ればなんとかなる、我慢して同じように公務員も我慢させて、市長に全権を与えて腹いせ的に既存の社会に打撃を与えれば済むという、保守からの革命の挫折を指していると思います。

この保守からの革命は戦後レジームからの脱却を志向する安倍政権も同じですので、全国的な現象であり、それを橋下政治は野党の隠れ蓑を持ちながら先行して行ってきたといえるのでしょう。

ここを解除しなければ本当の意味での維新からの解放はないのだと思います。

既成政党の絶望という市民の心情や、戦後自民党政治の検証と野党の存在意義への再検証も伴うもので非常に大きな話にもなりえます。

 

実際私のような分析の視野を入れないと、いまだ維新に票を投じようとする方が多いのかという、現象の説明と、それを変える対策は無理です。 人々は維新に騙されているだけではない、望んで維新に夢を見ようとする人々が多い、この事実と戦わないといけない。

維新の改革がニセモノであり、効果はない、そのような現実に直面し、住民投票で廃案になっても、維新に夢を見よう、信じようとする根っこの理由。 それは既成政党と、現在の社会システムに対する絶望です。 絶望の果てに新自由主義にすがりまた裏切られている。

新自由主義に人々が誤誘導されてるだけではありません。市井の庶民は自分に鞭打ち、悪人を一掃すれば大阪はよくなるという勧善懲悪を信じています。維新の政治ビジョンはそれに適合しそれを利用し搾取を繰り返しています。

維新をいまだ信じているのは、勧善懲悪の自己責任論者つまり大半の生活保守的な庶民層です。 なぜ維新の支持層と自民党の支持層がかぶるのか。そういう世界像を体現している保守的な市民層が行きつく場所が安倍自民か橋下維新にしかない。

それは現代のマジョリティ庶民層そのものの姿です。

維新の支持層の、既成政党への不信を解消するには、市民が今の自己責任型の社会の風潮は自殺行為であり、自分たちの町のことを自分たちで決める、弱者を守る政治が自分たちをよくすることを理解すること。それを説得的に述べる市民の広範な連帯なしには不可能です。

維新統一勢力がその受け皿になり得るかということを大阪の庶民は見ていると思います。反維新統一勢力は選挙後形を維持できるかという不安はある。もっと成長して市民が主体になる運動が発展する必要があるのではないかと思います。

市民が主体にはなりえていないというところが、維新を生み出し、今の構図を生み出しているとすら思うのです。

 

  •  都構想住民投票で反対が上回った根源は特定党派に還元できない市民の力

 

それともう一つ、都構想の住民投票で反対派が勝利した原因を私たちは正しく理解する必要があるのではないでしょうか。

私は都構想の住民投票はぎりぎりの勝利だったと思います。

駆け込みで非常に僅差で勝利した。しかもそれは政党のみの力では説明できないことです。実際Twitterや街頭に立った私の感覚では、自発的に都構想は危険だと思い立った人々が党派とかに関わらず反対のビラを配ったりポスターや張り紙を作っていたということがあります。

自主投票を決めた公明党の支持者も煮え切らない本部の対応に我慢できないように反対運動に身を投じていました。

 

私は今のダブル首長選挙で、反維新統一候補がそのような求心力を持てているか若干疑問です。それぞれの候補が一生懸命に頑張っていることは認識していますし、反維新の候補が彼らを置いて他に選択肢がないように見える以上、彼らは反維新の有力候補です。

ただ、都構想の住民投票は、大阪市がなくなる、自分たちの公共サービスの担い手がニアイズベターといいながら、より小さな力しかない区になってしまうということを予想外に多くの大阪市民が正確に認識し、不安に思わなければ過半数を上回ることはありませんでした。

つまりあの奇跡的な勝利は草の根の市民のものであると私やあの反都構想で活動した方々の多くが認識しているし、市民の広範な危機感、地元民の危機感なしに、自治会や医師会や財界も思い切って都構想反対に合流することはありえなかっただろうと思うのです。

既成政党の尽力があるにせよ、自民党共産党のような既成政党のものだけではない成果がこの住民投票の結果に表れています。

つまり都構想住民投票の反対運動には、市民自治の萌芽がありました。

市民が主役です。

ですから今回もちろん維新は政治的責任をとって退場していただきたいのですがそれだけに話は終わらないのです。

維新対反維新を超えた市民の自治を実現せねばならない。

しかしそれを反維新の既成政党はきっちり反映しているか、まだ十分ではないのではないかというところもあります。また私たち市民の側も、市民のイニシャチブの確立という、日本ではあまり行われたことのない取り組みにまだまだ不慣れなまま選挙戦に突入したということもあるのでしょう。

また反都構想の運動に参加していない多くの市民もあの時何が起きたのかをいまいちとらえきれていないのだと思います。

もちろん都市部の富裕層や巨大企業群は大阪市がどうなろうが、金回りがよくなればいいということなのかもしれません。

その中で自治会や地元商店会が都構想に危機感を持ったのは、資本主義的な都市の再編成にあらがう地元市民の存在も明確にしたのだと思います。

維新がなそうとする改革は、市民の間に巨大な光と影を投げかけ、光と影に当たったそれぞれの市民の間で評価をめぐって分断が起きるという厄介なものなのです。

吹田市堺市は反維新連携で勝利しましたが大阪市が同じような結果になると油断できないのは、都市のスケール、住んでいる市民の富裕層と地元層と貧困層の分断、営まれる経済規模の巨大さといった要素が絡んでいると思います。

 

繰り返しますが私は筋金入りの反維新であることは、これまでの発言、活動から分かっていただいているものと思います。 維新が府政市政を握ってきたこの8年間、軽度障害者である私には生きた心地がしなかった。

 

 しかし維新が台頭してしまったのにも、反維新の勢力が市民自治の主体であると大阪の市民にまだ幅広く認識されてはいないのにも上に書いたようにちゃんと理由があるのではないか。これを考えないと意味のある勝利も敗北もありえないと思います。

私は大阪の町が好きだから、弱者を守る政治が必要だからこのように反維新でありながら反維新勢力に対しても厳しい現状分析をし、発言をし、維新を本当の意味で退場させるために市民自治の観点がもっともっと必要であると進化を促しているのです。

 

維新は、市民に既成政党に依らない政治のスタイルのイメージを見せようとしました。

それは根底に既成の政治体制や政党に市民がなかなか共感しづらいものになったからです。

大阪市のようなあるいは大阪府のような巨大な行政体においては市民自治の側面よりも巨大都市の経営の側面が大きくなり、市民には実際還元されているはずのサービスが見えなかったり、思わぬところで苦しんでいる市民が見過ごされていたりします。

維新はそれを非常に単純化された構図で切り込むことで、市民へのビジュアル的なわかりやすさをみせようとしましたが、それは現実の複雑さを単純化し、様々な利害対立やステークホルダーの多様さから生み出される問題を強い権力で乗り越えようとする粗暴さも表してしまっていました。

それは大阪市だけでなく日本の市民の多くが多様な人々の存在と交渉しながらやっていこうとする価値観の転換を育てず、現在の社会に必死に適応し、適応した中で、適応できない人間を蹴落としていくという社会を生きてしまっているからこそ、生れてくるような問題です。

ですから維新を問い返すことは、むしろ私たち自身の社会の排除や不寛容を見つめなおすことになります。

であれば、単純に保革合同的なスタイルに回帰しただけでは、維新の提示した病巣を乗り越えるには十分ではありません。

選挙で維新の責任が問われることを私はまず望みます。

そしてしかし、反維新勢力が勝ったらすべて安心というわけではなく、むしろさらに巨大な課題が押し寄せてくることを覚悟し、たとえ保守勢力であっても従来の革新勢力であっても、これまでの地位に安住することはたぶん不可能なのだということをつきつけられるでしょう。

大阪が中央政府の横暴に本当の意味であらがえるかということも選挙後にさらに明らかになるでしょう。それは大阪の自民党府連につきつけられています。

ですから、私はすごくもやもやしていますし、

今後のことを心配しています。

皆さんもともに既成の枠にとらわれず考えていただきたいと思います。

よろしくお願いします。