細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

僕の、あほの海の中に一片の石を投げ込んでこの海をいつか歩いて渡れるようにしてみたいのである。

自分はある時から、頭がいい人のようにふるまおうと頑張って無駄なあがきをしてきた。しかし頭の良し悪しなど単なる比較でしかないのだから空しいものなのである。

 とはいえ賢いふうに、社会とか思想とかの問題を語りたいものなのである。単なる見栄でそうしている部分は大きいと思う。

 しかし見栄だけではないと思う時もある。必要だから考えていると思うこともあるのである。
 とはいえ、仕事もろくにできず、人とのかかわりにもいつも心臓バクバクで、しかしいかにも平気なようにふるまっているため、バカにされないように賢くふるまうということもしてきたのである。それはそうしたほうが便利だからである。
 それと、本当に雑草のように多様な知恵とか人間から吸収してきたものが自分にあるのは確かだ。

 僕は研究者のように、子細な議論はできないし、かといって生活実感で何でも切っていけるような確かな生活を持っていない。

 それでも自分には自分のこのありかたなり、40年という時間の経過、親や友達や付き合った人から学んだこと、その背景にある様々なことを背負って生きているのだから、それに頼るしかないわけだ。

 そういうわけで自分はいつも徒手空拳である。

 自分はおかしいなと思って、そっからいつも調べたり、何かのイベントに行けばたいがい図々しく質問をする。最近では知り合いのグループが会見を開いたといえば、時々取材と称していって話したり調べたりするのである。

 ネット検索というものが登場する前から、僕は図書館や本屋で雑読に雑読を重ねてきた。
 雑読なので、正規の研究体系などというものには従っていない。闇夜に足を踏み入れるように、何かにぶつかるまで歩いていくのである。
 雑読をしていると世界には偉い人や不思議な考えがあることに気づき、その不思議な考えや知恵というものが自分の心と響きあったときはじめてそれをしっかり吸収しようと思うのである。

 自分はおっちょこちょいであり、そそっかしいが、それでもここはたぶん大丈夫であろう、ここはまずいであろうと探りながら歩いている。

 私は生活に困るほどつねに頭がぼんやりしているかささくれているだけで、これはほぼ体質とかこれまで生きてきた生活からくるものだろうと思う。

 お世辞にも優秀とは言えない。しかし回り道や曲がりくねった道を、自分の納得のいくように踏破してきたのだから、あるいは座礁してきたのだから、それを歩んでいくしかない。


 僕らは文明の転換点に立ち至っている。原発は爆発し、極右は台頭し、まるでSFや戦時中のようである。

 すでに争いの火種は巻かれている。

 そして僕は全く自立していない。
 自立しないまま40になり、来年には41になろうとしている。

 まったくなにもできていないから、情けないとも思うし
いや俺はこれでも頑張ってるじゃないかと自分を憐れんだり、しかしまだ生きているだけいいじゃないか生きていれば、心が立ち騒ぎ揺れていろんな思いをするじゃないか、残酷でもなんでも俺は生きているじゃないか、自分が何ができてもできなくてもこうしているだけでいいじゃないか。

 あとは何をするべきなのか、課題はいつも向こうから、僕とそっくりな別人のようにやってくる。

 僕は僕に似た別人に語り掛けられるようにして、次の扉を開く。
僕は不器用で、卑怯で臆病なので、もっと勇気を持て、もっと愛を持てといわれるのかもしれない。反対にさらなる無力を突きつけられるのかもしれない。
しかし事態が悪くなっているようには実は思っていない。
なぜなら最低の場所から始めているからだ。

 次の扉を開いてもそこには無味乾燥な日常があるだけかもしれず、絶望は毎日広がり俺の苦しみは全く変わらないのかもしれない。

 それでも海に一つの石ころを投げ込むようには学んでいるのだと思う。
 僕の、あほの海の中に一片の石を投げ込んで
 この海をいつか歩いて渡れるようにしてみたいのである。
 もちろんその前に命は尽き果てるだろう。多くの人はそのように
 生きて死ぬのだろうと思う。

 そういう悠久の時間の中で僕らは生きているのかもしれない。