細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

自分の書いた川内原発審査書案パブリックコメントを公開します。

実は3つ書いてその一つはフィルターベントと免震重要棟を設置してから審査せよというものでした。それは保存をミスってしまったので、ふたつを公開します。

この一つ目はいわゆる「科学的技術的な意見」とは異なるように見えるかもしれませんが、ちがいます。原子力発電所も科学技術を駆使した「製品」です。製品には様々な科学技術が使用されています。しかし適切かつ事故が起きないようにそれが設計され保守整備され点検されるためには、設計や運転にかかわる技術を支える「哲学」がはっきりしていなければなりません。しかるにこの審査書あるいは川内原発再稼働をめぐる議論を見ていると科学技術が何のために使われ、何を守るべきかがはっきりしていません。
福島第一原発事故において経営最優先の思想が、保守点検や危険の想定を上回ったため事故が予見で来ていても対策が取られていなかった。そして大飯再稼働差し止め訴訟判決においても原告団の弁護士に聞いたところ原子炉の運転にかかわる利害よりも人々が安全に生きて暮らす「人格権が大事」といっていました。それを以下は展開しています。
そのような目的論的な考察は人文社会科学や、工場の安全講習などではきわめて重要なのですがなぜ原子力の稼働にかかわる審査書にはそれが欠如しているのか皆さん問題にしていただきたいものです。そしてこれは原子力だけでなく、放射能の危険や経済や科学技術が生み出す制度や製品についても必ず問われねばならないものでこれが形骸化すると必ず事故や公害や製品の劣化の放置、組織腐敗などが起きます。

川内原子力発電所の発電用原子炉設置変更許可申請書(1号及び2号)に関する審査書(案)について意見を申し上げる。
「I はじめに 1.本審査書の位置づけ」において、本審査書は原子炉等規制法43条の3の8第二項で準用する第43条の3の6第一項第二号の規定のうち技術的能力にかかわるもの、及び第3号の規定、第4号の規定に適合しているかどうかを審査したものとしている。つまり発電用原子炉の設置、事故の防止、そのために必要な設備などの審査を行っているといえる。しかしこの審査書の問題は「何のために」そのような対策を審査しなければならないかという目的の部分が欠けている。そのため、想定される事故のシナリオを解析し、必要な技術や設備や人員やその教育を用意するつもりなのかどうかを審査しているだけになってしまっている。「適切なものであるかどうかを確認した」という表現の頻発はそのことを証している。つまり「何のために」技術の審査をするのかという、人文社会科学におけるところの目的論的な目標が示されていない。そのためこの審査書は規制委員長の発言通り審査書に適合したかどうかのみを見るのであり、安全であるとはいえないと繰り返している。
であるなら、これは総理などがいう「安全審査」なるものとは全く異なるのであり、再稼働の判断の基準にされることは決してあってはならない。が、委員長は「安全とは言い切れない」といい、総理は「安全審査」であるかのようにいう政府の見解はどちらなのか、どちらを採用しても首尾一貫した政策遂行を全うできるとは言えない。
さてしかし守るべき目標の中身が示されない技術や科学とは一体何だろうか。それは、人間を守るために様々な技術が展開される他分野の製品とは全く趣を異にするといわねばならない。さて、しかし原子炉等規制法の第一条を見てほしい。
最後に「必要な規制を行い、もつて国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資することを目的とする。」とある。つまり先日の福井地裁判決で求められたように国民の生命、健康及び財産、環境を守ることが目的的に最優先されるべきである。
したがってこの審査書が本当に「国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資する」ものであるかどうか、行政官庁である環境省原子力規制庁規制委員会は人文科学的社会科学的に再考しこの目的に沿う「技術的審査」であるのかどうか、真摯に再考し、その原案の段階において市民に参加をさせるべきであり、今頃審査書案が出る段階で国民の意見を問うなど遅きに失している。審査書案は撤回されるべきである。

以下は原子炉を動かさないことが事故対策ではないかという視点を導入しました。
シビアアクシデント対策がいくつもの仮定を設けて設計されているため、複数の危機が発生したら容易に危機対応が不可能になることや火山の危険について根底的に間違った評価がされていることは、いちいち引用して指摘していたらきりがないので総論的に書きました。
そういう書き方では無視される可能性はあるのですが、前提が間違っているのだから本当はこういう書き方しかできないと思います。本当にイベントツリーなどの欠陥や機器のリスク評価などについて丁寧に書いておられる技術者は必ずおられ、しかしそれもまた規制委員会は反映しないのだろうと思います。
どうせパブリックコメントなどセレモニーだといいますが、そういうニヒリズムは聞き飽きました。実際行政官僚がどうとらえていることなど百も承知です。にもかかわらずしつこく発言し続け、世論を形成すること、そこにしか原子力の暴走を止めるカギはありません。
ドイツだってチェルノブイリから四半世紀その議論をし、政府や関係各機関に市民や自然科学者以外の多様な専門家からなる委員会が設置されました。国連の人権分野もそのようにできています。
またアメリカですら実は公文書は311に関して米国政府が収集したデータはすでに公表されています。寝言やニヒリズムはやめて目の前にあることをひとりひとりが考えれば、誰かが努力しすぎて過労になったり、また絶望的な抗議行動の中で官憲に逮捕されるまでに運動が追い込まれることはなくなるはずです。

福島第一原発事故において、規制委員会なりに汲み取られた教訓から規制基準が作られ、この度川内原発審査書案としてまとめられた。

しかし各種の対策について述べられているのであるが、根本的な事故対策が述べられておらず、評価もされていないので、指摘する。
それは、様々な事態がおきる前に原子炉を停止させることすなわち稼働をさせない場合の事故の危険の軽減についてである。

福島第一原発メルトダウンし、爆発したのは地震津波の直前まで運転していて、地震によってスクラムした1〜3号機である。
逆に停止中であった4〜6号機は、地震津波被災時以前から運転を停止していた。4号機は燃料棒自体を抜いていたし、5,6号機は、完全に冷却され、冷温停止していた。これらはメルトダウンや爆発を免れた。

爆発した原子炉とそうでない原子炉の違いは前者が核分裂反応を停止したものの、莫大な崩壊熱が残ったまま電源が失われたことが事故の原因だということだ。
スイッチを切ったら自然にあらゆるエネルギーが失われていく機械と原子炉の違いはここである。事故前多重防護がフェイルセーフといっていたが、電源が失われ、冷却材が失われた場合、機械だけでなく、放射線量の高まりや災害による現地の複合的な困難が起きた場合、現地作業は困難をきわめた。審査書は複数の仮定を置いて、シビアアクシデント対策が分析されている。しかし、万が一が重なるとき事故が起きるという緊張感は感じられない。
再び事故が起きた場合「想定外」という言い訳を聞かされることになることが容易に予測される。

不測の事態が重なった時に崩壊熱の管理が困難になることが重大であり、いまだにそれは汚染水の問題で続いている。あれらはいまだに放出される崩壊熱を冷ますために発生している。

この度の不幸な事故から学んだことは想定から外していた地震津波災害が起きたことである。
今回の審査書は例え、地震津波(加えて火山)が想定されていても、それを上回ることは起きないだろうという楽観視が特徴である。
地震が滅多に起きないヨーロッパとはちがい、日本の原発地震地殻変動、マグマの運動は活発である。
特に火山については、火山予知連の会長らが、「姶良カルデラなどの破局的噴火は現代の火山学の知見では予測困難」と発言している。
しかし、審査書案は予測は可能、破局噴火は当面起きないとしている。火山学の成果に素直に耳を傾けるべきだ。
そうすると、単なる火山の監視だけでは対策が不十分と容易に予測できるはずだ。

さらに対策間の有機的な連携が見いだしたがたい。例えれば流れの中で対策が考えられているのではなく、それぞれの心配な機器や事態へのそれぞれ分離された評価が下っているだけである。

ぜひとも今からでも原子炉の運転中に災害が起きた場合とすでに冷温停止していた場合の比較をしてほしい。というのは、他の科学技術的な施設でも、機械を動かさないということは、故障や事故の危険がある場合の基本対策である。特に原子炉は崩壊熱が問題である。
原子炉のあらかじめの停止も、事故対策として想定し、組み込んでほしい。つまり、原子炉の稼働はしないということが、この場合事故対策として適当であるといいたい。さらに、核燃料を安全に保管するあらゆる対策を練っていただきたい。
切に願う。