細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

あるはずのことがなかったことにされる最大の暴力に抗する

 私はある時から議論というものが空しくなった。空しいというかあまりにも議論や言葉が大事にされないのだ。その事態への苦しみといっていいだろう。
 議論では越えられない、あまりにも冷たく見えない壁が世界に広がりつづけ、私たちが生き物として恐れたり喜んだりしながら生きるということからすべてをはじめることができなくなってしまった。
 議論では越えられない、あらかじめ存在する見えないものによって私たちは共存しようとする努力を破壊されてきた。議論しようとする以前にあるはずの、あるべき「そこにそれがある」と認めることがなされなくなっていたからだ。
 毎日自殺者が電車に飛び込むようになって何年にもなる。そしてそのようなことに鈍感になっている中で原発は爆発してしまった。自殺ということは自分でも考えたことがあるので、だからそういうふうになぜなってしまうのか、なぜそういう自分を含めた人をこの社会はサポートできないのだろうということを考えてはいた。
 しかし考えながらも答えは決まっていた。この社会の構造的暴力を誰も止められないと思い、事実止められなくなっていることはもう自明だったからだ。私は自分が「殺されるのではないか」という強い感覚体験があったので、その時からこの社会の中で人は人を殺すし、人は人を殺す前に自分で乗り越えられない様々なものに突き当たって自ら死んでしまうような深い孤立があるのも知っていた。
 それは社会問題でもなく人権問題でもなく、自分の隣でもなく自分の中に深く刺さった自分自身の問題であった。
 だからそれを一般的に語ろうとしたり職務として語ろうとしたりしてもほとんど何もならないだろうと思えた。
 だから実際私が福祉の担い手としてあまりにも無力であり何もできていないということもあるが、正直もう手の打ちようがないという気がしていた。つまり物事をあくまで社会問題の範疇で考えようとするなら、一般的な問題として考えようとするなら、そういう姿勢によって解決は不可能になると思っていた。
 多くの人が自分が被害者であり加害者であり被害者であるという無限の螺旋を自覚せねばならないがもはやそれは不可能だった。
 私に一つ誤算があるとすれば、この社会はもう少し機能していると思っているのが油断だったということだ。
 311の地震津波そして312の爆発はその油断を打ち砕くのに充分だった。

 この社会はもっとも想定されるべき危険な複合巨大施設について、想定していたにもかかわらず、想定自体を否定し、結果あらゆる対策を放棄していたということが明らかになった。
 原発についてこうなのであれば、科学や医学や福祉についても芸術についても同様であろうと思ったらやはり同様だった。

 想定自体を否定し「そんなことがあるはずがない」としていれば、あるはずのことをなかったことにできる。しかし事故は起こってしまった。だから事故が起きたことを「なかったこと」にしようとしている。

 あることを「なかったこと」にしようとするのだから、議論が成り立つはずがない。議論が成り立つはずの材料や土台そのものを否定してしまえば、それは議論にならない。

 議論ができない状態で、人々が自分で考えようとしたり感じようとする努力すらどうでもいいものとされていけば、いやどうでもいいものにしているつもりはないのだが、そういうふうな振る舞いしかできないように人間が行動してしまっているとしたら、この社会は社会そのものが巨大な殺人機械になるだろう。

 殺人機械のもとでは個人が良心を発揮することが難しくなる。それでも、そこにあるものをそこにあるものとして自分の問題や自分の共同体の存続にかかわる問題として措定できればいい。だから原発で事故が起きたのならばまず放射能の被ばくが問題になるだろうと思った。

 しかし事故が起きた瞬間も「事故が起きました」とはならず「事故だけど大したことはありません」をやり続けていた。
 次々と出てくるデータは事故の深刻さを示し始めていてもそれはデマである、風評であると言い出した。

 この風評という言葉は「根も葉もない噂」という意味である。しかし放射能汚染については自治体や日本政府が収集した限りのデータでも大規模であり、これまでの公害事件と比べてもまったく規模が違うものなのであった。
 規模が大きいからにはそれはますます考えねばならないのだが「風評だからそれらを心配するものが悪い」という論理になってしまった。

 目の前に見えているもの、感じられている事態をなかったことにされるのは一番の暴力である。暴力を許さないで平和的な解決を求めるのが言葉である。

 しかし放射能汚染で事故前より激しく放射能汚染された地域はたくさんある。そこで人々は暮らし続けられるのだろうか。本当は帰れないのではないか。様々な疑問が浮かぶがそれらも風評とされて弾圧されてしまう。

 つまりこのあることをなかったことにする心身を破壊する暴力が最大限ふるわれているのが原発事故なのだがそれの声を上げる人はまだまだ多いとは言えない。声を上げていた人も疲れてきたような状況である。

 心や体に振るわれた暴力を払いのけるしかもはや生きる道はないはずだ。
 しかしそれをしないのだから子供たちや悩める者たちは生きる力を奪われていくだろう。被ばくや放射能汚染についても適切な調査があるとは言えない状態だ。

 このような世界の中で、未来を子供たちに託すことや子供たちに語る親や大人の説得力はあるのだろうか。こういう状況では言葉は一番力を奪われる。





  しっかり考えるんだよ。