細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

美味しんぼ騒動と解釈改憲にみる行政による議論や表現の抑圧について

私は大阪に暮らしている、放射能汚染について心配 している一市民です。 自分自身は研究者ではなく 社 会福祉を勉強し、またかねてから持病に悩むものと して、健康について考えてきました。 その延長で放 射能の生態系や人体への影響も考えています。

今回の美味しんぼ騒動。放射能汚染については 様々な評価が専門家や学者にもあると思います。 し かし問題は、今回政府や行政機関といった公的な責 任を持つはずの機関が、安易に、市民や学者や作家 の表現に特定の方向から介入していることではない でしょ うか。

放射能汚染については調査や被害者の多様な声を受 けて可能な限りバイアスを除いて発信すべき行政 が、放射能のリスクを訴える表現にあまりにも過剰 に反応して います。

これではパブリックな空間において、市民や様々な 研究者の努力で汚染を明らかにしたり悩みを解決し ていくことがやりにくくなってしまいます。

公的な機関は強い権限を持つわけですから、それが 市民の表現を特定の方向から抑圧していくのは、被 災者の救済のために調査をし対策し議論をしていく ことの妨 げになると思います。

特に国は原子力を推進してきた責任があります。安 易に表現に介入せず、市民や研究者の知恵を素直に 聞く姿勢を持つことがますます望まれるものと私は 考えます 。

先日の解釈改憲の総理記者会見にも感じましたが、 私的な懇談会の報告に過ぎないのに、こ の国の根幹である憲法の意味合いを変えることをあ たかも、 決まった方針であるかのように発言する総 理にも異様な感覚を覚えました。

国や行政には、特定の方向からだけ汚染を評価する のではなく、また特定の方向から国の根幹のあり方 を議論をするのではなく、市民が何を望み、どのよ うな現実 があるのかしっかり見つめる義務がありま す。

美味しんぼ騒動と解釈改憲には、国や行政が公的な機関 としての役割を忘れ、恣意的な方向に議論を差し向 けようとする意図を感じます。

私たちが質的あるいは量的に多角的に様々な見地か らこの大規模放射能汚染について調査し、市民が防 護や判断をするための議論が公的機関に因り抑圧さ れようとしています。 私たち個人個人がこれは安全か、これは危険かをそ れぞれで、あるいは共同で判断したり考えたりする こと自体を国や行政が快く思っていないのではない のでしょうか。

これでは被災者や市民や世界の人々の安心と安全は 守りにくいと思います。私たちが自由と権利を守る覚悟が試されています。