細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

フタバはすぐそばにある。ー限定無料公開「フタバから遠く離れて」をみて

公式:「フタバから遠く離れて」 映画本篇(3/23まで限定公開)
をみた。
作者は続編の製作公開を目指して、この映画をより広く知らせるべく、限定無料公開に踏み切ったようである。

双葉町津波被災地であり、原発被害のグラウンドゼロであることを強く感じた。それは親子が一時帰宅し、彼らが映すハンディカメラから、「なんにもねえ」ということばが聞こえて強く耳に響いた。
亡くなった家族のために花を手向けるが水にも瓦礫にもさわることができない。

私は双葉の姿は私たちの未来であるように思えた。原子力があるかぎり私たちは核汚染の心配から逃れられない。
私は彼らが犠牲者だと思う一方、私も一日一日双葉町の人々と同じ方向を歩んでいると強く感じる。誤解を招く言い方かもしれないが私にはこのような破滅と離散が他人事に思えない。私はこの映画をみて、福島に犠牲を押し付けて、私たちはのうのうと生きているという問題のたて方すら手ぬるいと思えた。
私たちは労働や通信や生活全般の中で、確実に滅びへと歩みを進めている。それは一秒後か、10年後かはわからない。
もちろん私は今はすべては奪われてはいない。
だからそれは希望だからむろん双葉の人々と同じではない。
彼らにそれぞれ暮らしがあるように
私にも今がある。

しかし、私は彼らとちがうように感じられない。
うまくいえないが、彼らが失うのと同じものを私も日々削られている。

そう感じないと
むしろ無責任に感じるのだ。

井戸川元町長が選挙に出たとき、私は彼が国会にいってほしいと思った。
彼は映画の中でどんどん変化していく。
自らの町が深く騙され裏切られたことをしる。
むしろ彼は元々原子力が町にあることのおかしさに
昔から気づいていたことを発見したようにみえる。
気づいていたことをごまかしていたことを悔やんでいるように感じる。

彼はふるさとを奪われた世界の民族の気持ちがわかるといった。
津波原発は分けて語られるが
離散を強いている点で、
強い離散を強いている点で、結合し
破壊された町。

私もまた彼とともに私にかけられた深い欺瞞に気づきたいと思う。
否、私は私の精神病の中でこの世界の崩壊をごまかせないと
気づいていたはずだ。
私は病んだのではなかった。
ただ、たまたま他の人より早くこの世界の壊れから目をつぶることをやめた
だけなのかもしれない。

私はそして激しい苦悶の中でも死なないことが
できると知った。
しかし被曝と精神病はちがう。
だから被曝を精神的ストレスにいいかえる人々に腹が立つのだ。

私は強い精神的苦しみを体験したので
被曝した町長の苦しみのちがいを感じる。

しかし私も被曝を免れない以上
私の歩く道の先に井戸川元町長がいるのを感じる。
政権が再稼働を目指す以上
私たちすべてが双葉町の人々と同じになりうる。
これは遠い話なのだ。

この映画は双葉から「遠く離れて」だが
私たちが愚かであり続ける以上
世界は核の汚染を避けられない。
ゆえに原発について考えを改め放射能について
考えを改め
起きている出来事をみるべきだ。
それにはまったく時間の猶予はない。
猶予はないという意味で
私たちの悲惨は間近であり
フタバはすぐそばにある。

多くの人が目をつぶらず事実を語り続けよう。
事実を語り続けて滅びる方が汚染水はブロックされた
とかいうよりはましだし
フタバ、全ての被曝について
確かな考えを持てるはずだ。

彼らは姿で、私たちを滅びないように
導こうとしている。
私たちはその経験と叡知に従おう。