細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

放射能リスクから社会を共同で防衛するー絆を断念したつながりの倫理

放射能では自己防衛しなきゃいかんのは当たり前だ。しかし自己防衛しかないよ、で終ったらまずい。なるほど敵は巨大。しかしこの社会は「私」以外からもできている。その人々の殺害を許せば次はあなたに回ってくるこれはアウシュビッツナチスの教訓。だから社会は共同でリスクから守られねばならない。

自分を守る考え方が、まずあり、そのたしかさが隣人を救う。これはいままでの常識と逆だが、原爆症における内部被曝の意味を司法にときつづけた科学者矢ヶ崎克馬も「大きな利己主義」といっている。もう少し正確に言おう。自分を犠牲にしないことと他人を犠牲にしないことの両立は難しいが、自分を守ることと他者を守ることとが限りなく近づいといく。これが放射能汚染。さらに
絆が言われたが、同じ痛みを感じることだけが絆や共感ではない。

放射能は他の長期曝露型の毒物と似て、不可逆的なリスクであり、 蓄積すればするほどリスクは増す。

アウシュビッツが共感困難な体験の意味を欧米人に与えたように、私たちは放射能汚染もまた、共感したり共体験して解決できない。
絶対的な崩壊地点から私たちはある残酷な距離を取らされる。
取らざるをえない。体験しても、必ず何らかの形で離れざるをえない。それは、いま戦っている偉大なるウクライナの人々が明らかにしたことだ。
彼らは絶滅を避けるために移住や保養をプログラムした。
彼らはチェルノブイリ法において明らかにある断念と深い覚悟のもとに、社会が共同でリスクから守られねばならないとして、移住の権利や義務を汚染地域の人々に付与した。
これは人類史の、ある断念をもった政治思想の転換である。法哲学の転換である。
これはカーター政権下の、ラブキャナルにおける有害土壌汚染地域からの集団移住においても、限定的に強いられたことだが、チェルノブイリと福島東電事故ではさらに大規模に、人類史の、ある敗北に対する判断が問われている。
資本は永久の命を目指して、人々を汚染にさらしても企業や国家を免責しようとするが、人類や生態系の存続より企業や国家が大事とはマルクスも驚く本末転倒だ。

ストルガツキー兄弟の『ストーカー』におけるゾーンの意味やチェルノブイリのゾーンの意味。日本の原爆や戦争体験記が与えたよりさらに持続的に私たちは緩やかな崩壊に立ち会っている。
放射能汚染という緩やかな崩壊は、私たちが記憶する思い出やふるさとや現在や未来をそのまま壊死させる。

凍りついた傷口である。
傷口に涙をしたまま私たちはある断念をしなければならない。
この断念は前向きな断念だ。未来をつくるためだ。

あなたが老人で先は短いと考えても、未来の人のために放射能は体に良くないといってください。あなたが若くてもあなた自身のためにも、あなたより小さなひと、体が衰えた人にもしもがあってはいけないから放射能は体に良くないといってください。