細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

ジャンリュックナンシー「破局の等価性」から原発事故と生活の問題をえぐる

フクシマの後で: 破局・技術・民主主義

フクシマの後で: 破局・技術・民主主義

フランスの哲学者ナンシーの福島原発事故論です。
日本の脱原発界隈の議論では飽き足らなくなり、碩学のナンシーの本を読むと
やはり日本の言論に全く足りていないことがしっかり書かれていました。
引用はすべてナンシー『フクシマの後で』所収の「破局の等価性」より。

このことが意味するのは、よく考えてみるならば無限なるものの開放性である。存在することを、無限に意味をなす能力として認識することである。到達すべきいかなる目標ともならないが、とはいえつねにその近くにあることが可能なもの、こうしたものとしての「意味(サンス)」についての思考である。フクシマはあらゆる現在を禁ずる。それは、未来への志向の崩壊なのであって、そのために他の諸々の未来へと働きかけねばならないのである。実際、他の未来へと働きかけてみよう−ただし、つねに更新される現在という条件のもとにおいて。

少し難解に見えるでしょうか。つまり、この事故が起きて私たちは未来という方向を失ったということです。未来がないということです。未来との、つまり夢や目標に支えられていたはずの現在の生活も崩壊します。
ゆえに「あらゆる現在を禁ずる」です。


例えば、放射能汚染は、一挙にこの場所にあるすべてを汚染します。それは増減することはあれ、無くなるということは何百年のスタンスで見ないとありません。

現在溶融燃料も取り出せず、その位置もつかめていない以上「見通し」は立っていません。見通しというのは現在からみた未来予想図です。見通しがない以上、現在も手を打てない以上そこには未来も現在もありません。

これは私たちの未来が実際に殺害され私たちが生きるのを禁じる世界が実際に広がり、私たちが実際に、精神的に肉体的に生きるためのポジティブな力が潜在的に現実的に奪われているただ中だということです。

現在人々は事故現場、汚染地域で常に被ばくし続けています。これは人間だけではありません。生物、事物すべてです。
子供が土に触れない、触れば被ばくするというのは、子供の成長のために必要な情緒的なものすべてが奪われているということであり、被曝しているという意味でその子供の健康な現在から未来が奪われているということです。
おじいさんのふるさとが汚染されたら、おじいさんの短い余生を終えるべき家の現在と未来が奪われているということです。
その代わりにわずかな賠償金が金額に換算されるか、あるいはおかねすらまったくもらえません。
これはイタイイタイ病で起きたこと、水俣病で起きたことと同じです。
お金や財産という換算できる価値ではない、あらゆる現在と未来を構成するものが立ち入り禁止になり崩壊し奪われ続けることです。これは安全だから済んでもいいといっても気休めにもなりません。
放射線のリスクにはしきい値がなく、核分裂で生成する放射性元素が体内で何を引き起こすか十分な知見はなく、私のブログで紹介してきたようにチェルノブイリ汚染国の公的機関や政府ですら汚染地域で済むリスクを認めています。

現在が崩れて未来も崩れるその危機なのであって単なる科学技術事故ではありません。これの例として、インドのボバールの事故をナンシーは加えています。ボバール事故は化学工場の爆発で、化学物質や重金属が環境を汚染しいまもなお被害者がたくさんいます。
このことについては過去にこのブログでも触れましたが、東電の事故との違いはインド政府が、工場の持ち主であるアメリカのユニオンカーバイド社を訴えたことです。
訴えたけれども、ユニオンカーバイドは依然としてきちんとした対策をしていません。
福島の事故も広大な地域が汚染されたにもかかわらず、東電は公的機関による捜査を受けていません。
これは世界規模でも異常な事故です。チェルノブイリのようにその後ソ連が崩壊したわけでもありません。またロシア、ウクライナベラルーシはとにもかくにも汚染地域に居住するリスクを認め、1ミリシーベルト以上の追加被ばく地域に移住権利を与えたのですが日本はそうしていません。法律があるのにそうしていません。

このような意味でもおそらく法治主義的にも破局的であります。
原子炉規制法では原子炉の外側を周辺監視区域として定めています。この外側に年1ミリシーベルト以上の汚染を強いてはなりません。これに反した現実があることを政府は山本太郎参院議員への答弁で認めています。
また瓦礫についても100㏃以上はもちろん100㏃以下でも放射性廃棄物は管理されているということが、新潟の柏崎刈羽原発で事故後報道陣を集めて公開されています。
それを逸脱する事態をたくさんの特措法で追認しています。


そしてナンシーはそれは原発事故に限られたリスクではないといいます。世界中、技術とネットワークでつながれている以上それは全地球規模のあらゆる領域で起きかねないリスクです。例えばリーマンショックがそうであったように。
資本とか科学技術が要請するものとは別の未来へ出なければ解決はないというのですから、現在の脱原発運動や各種政治運動がまったくこの事態に対応しきれていないのは明らかです。
私はガレキ拡散や食品汚染、移住問題を提起すると多くの脱原発という人も少しの放射能は平気といいました。それは目の前の現在から目を背け、ナンシーの言う現在の破壊に原発反対の人士すら加担しているかもしれない恐怖を思わせました。
こういう事態に芸能界でも異端児的な位置にいた山本太郎氏や薬害エイズの被害者である川田龍平氏らのようなマイノリティの視線をもったわずかな中央政治家しか反応していただけません。
それは全面的な、ナンシーの言う現在の禁止や未来の崩壊を認めれば、この国やこの資本主義科学技術体制が持たないからです。

フクシマという出来事は、おそるべき形で範例的となった。というのもそれは、大地震、密集した人口、(管理の不十分な)原子力施設、公権力と私的な施設管理の複合的な関係(略)のあいだの緊密かつ粗雑な連関をさらけ出すものだからである。
フクシマで生じたこうした接合が例外的なものだと考えるべきではない。それはもちろん日本においても例外的ではないし、世界規模でも同じである。もちろん大地震と脆弱な原子力発電所はそれほど頻繁に重なるものではないが、それでも原子力エネルギーを扱うところではどこでも、ほとんどあるいはまったく計算できない規模のリスクは、原子力産業に限られない。−私が思うに、我々のみらいについてできるかぎり考えるためにも、もっぱら原子力のみを焦点化することを越えねばならない。原子力の固有のリスクに、−二酸化炭素の排出や魚の種の枯渇であれ、遺伝生物学の技術や生体認証の技術やナノテクノロジーであれ、電力−金融技術であれ−われわれの技術全体と関連するリスクのすべてを結び付けなければならないのである。
われわれが考えなければならないのは、われわれの技術化された世界の相互依存的な全体−この世界とは、まさに人間の創造による世界であり、同時に存在するあらゆるものを潜在的にはすべて従属させる世界である。−がどのような実相を有しているかである。われわれの相互依存を雄弁に説明してくれる例が二つある。一つはRFID(電波による個体識別(
Radio frequency Identification))という常に増大し続けているシステムである。これによってあらゆる種類の位置評定、追跡、接続、そして制御が可能になる(その先駆者はバーコードである)。もう一つは、「原子時間」による規定である。この時間は、地球的な時間から独立し、情報の伝達、計算、変換などの多くの営為に必要とされる惑星規模の同期化のために求められるものである。

問題は脱原発以上の文明の危機全体なのでした。
これは元CIAのスノーデンがいったことですが、GPSなどの一人称システムについても、情報工学の専門家がCIAにいて、容疑者が世界の裏側にいてもその挙動を捕捉することが可能だということです。私たちは情報工学遺伝子工学を通じて、ただいま現在もその未来も管理し捉えられようとしています。
放射能とは違いますが、私たちの現在と未来の固有性が奪われつつあるのです。これはミツバチ大量死をもたらすネオニコチノイド農薬でも、特定秘密保護法でも同じだし、同じものが別様に繰り返し現れてきて私たちの生命の質それ自体を掘り崩しているのです。

そこには必ず権力やお金がついてきます。

そんなときに、自己啓発セラピーのように「自信を持て」「ありのままを受け入れよう」といっても無理です。世界の仕組み自体がそうではないのですから。
私たちは原発事故以降情報に振り回され、本質を考えることができなくなっています。

少し自分のことを話してみます。
なぜなら昔から私たちは本質を見失っていたからかもしれず私のその予感は日増しに実現していくようで怖いのです。

私がいじめを小学校で受け、その直後グリコ森永事件、日航ジャンボ墜落、チェルノブイリ事故と、科学技術の限界、情報の隠ぺい、遍在するリスクのさらなる拡散の現象がありました。
ナンシーの言う危機はひたひたと我々を襲っていたのでした。

私はいじめで苦しむ心を抱えながら、予測不能な危険が起きる世界を徐々に強く恐れるようになりました。それは近代以前の社会にはなかったものでした。
それは人類や地球の滅亡可能性をはらんだ破局であり
私が子供のころに見たガンダム宇宙戦艦ヤマト風の谷のナウシカなどは
そういう人類の環境汚染や戦争の危機をはっきり描いていました。

私は高校くらいから心を病むようになり、働いたり活動したりするのが困難になりました。
そうして大学卒業前に、阪神大震災とオウムサリンテロが起きました。
隣の町で起きたカタストロフの映像にひどく驚き、それはしかし強いストレスに弱い私には離人感すら伴うものでした。
またオウムサリンテロは、はっきりと原理主義の台頭とそれによる化学兵器テロであり、これは後の911を予告しています。
オウムはこの世界の矛盾に気づいたものの寄合だったはずが、過激な暴力集団になった。私は苦悩を抱えるものとしてまったく他人事に思えませんでした。
私はオウムに入りませんでしたし、宗教的原理主義を進行してはいませんでしたがこの世界がとてつもなく閉塞し生きづらいことには気づいていましたから。

そうして生きづらい社会に気づきました。これは日本だけでなく世界中そうだということを、それがグローバル社会なのだと気付きました。これは911のころです。
私は福祉で働いていました。福祉の業界も過酷で、障害者の権利のためには過酷な労働に耐えよと職場でいわれました。私は職場を改革したかったし、発言したのですが徐々に疲労が襲い、また鬱状態になり生活破綻をきたし、とうとうその後10年働いていません。

その間、社会福祉士の国家資格を取り、精神科デイケアにも通いました。
引きこもりや社会学障害福祉のイベントに行き、自分の生活や権利について思考し
同時に詩集を出したり詩を書きました。
しかし、この社会への根本的な違和感と、苦悩は晴れることなく
多くの日々は無為でした。そうする中であの311と312のカタストロフが起きました。これは汚染水漏れ、広大な放射能汚染、その拡散は現在も進行中です。
事故を収束することはおろか、事故原因の分析や放射能被ばくの対策すら政府東電は目を背けています。たくさんの検証委員会がつくられ多くの世界中からの科学者や政府関係者の真摯な提言に日本政府と東京電力は耳を閉ざし、なんと原発再稼働をし、集団的自衛権を行使する体制を整え、秘密保護法という秘密国家化を促進する法制度も立ち上げました。

ナンシーは科学技術が必要とする「等価性」つまりお金に変換でき情報に変換できるものとは異なるあらゆる人間や生き物それぞれ異なったもの同士の平等性を考えるべきだといいます。
これは社会のみならず我々の生命・肉体の開放へのヒントになります。

その都度問題になるのは、個別的な顧慮であり、注意ないし緊張であり、尊重であり、さらには特異性そのものへと向けられた崇敬(adoration)とすらいいうるものである。それは安易なエコロジーの言説が勧奨するような「自然の尊重」や、それとは別のしばしば省察が不足している言説が勧奨するような「人権の尊重」には−こうした尊重自体は軽視すべきではないとはいえ−程遠いものである。そうしたものよりもむしろ、言葉の強い意味での敬意(estime)。すなわち見積もり(estimation)というその模造品とは反対の意味での敬意である。というのも、見積もりあるいは評価(evaluation)とは貨幣の等価性であれ、力、能力、個人、リスク、速度等等の等価性といったその代用品であれ、一般的等価性の系に属しているからである。敬意のほうは逆に、−花、顔、音色といった−特異的なもの、それが現前へと到来する際の特異的な仕方に向けられるものなのだ。

これは日本語では「大事にする」「大切にする」ということだと思います。
いつくしむとかそういうふうにいってもいいでしょう。

事故以降、環境保護団体が口をつぐむ放射能汚染、なぜならレイチェルカーソンのころは放射能も化学物質も重金属もあらゆるものが同じ環境学の対象でした。しかしリサイクル推奨の現在では、環境団体も廃棄物のリサイクル、温暖化、化学物質と細分化しそれぞれの世界に縛られています。数少ない団体がそれを免れていますが、エコ方面の方々の声が小さいのです。
カーソンはセンスオブワンダーという本を書いています。この言葉をあらゆる知識人、科学者は福島の事故に対して思い出しそして涙してほしいです。私も環境問題に詳しくなかったけれども、廃棄物やがれきのことを調べていて環境系の学問が偽善といわれ、また利権にさらされ傷ついていたことを知り、もっと早く知っておけばよかったと後悔するからこそ放射能汚染問題を追っかけている気がします。

また、事故以前から私は左翼系の論者の人権尊重に教条主義的な響きを感じることが多かったのです。それは働いた施設でも同じだったのですが、そして通った精神科デイケアでもそうなのですが、多くの場合平等や人権という言葉が実態とそぐわずに空疎な言葉として使われていたからです。
現場から起きていることをきちんと救い上げ、その言葉や状況を人権の言葉に変換することができず、たとえできたとしても、この過酷な社会制度がそれを吹き飛ばしていきます。
私たちは血の通った人権が欲しいわけです。市民社会に根付いた権利が欲しいのです。それを排除する大多数の企業化したテクノロジー化した人々と、同じ土俵で戦おうとする人権派がいて、それらはこの311に対応できませんでした。
対応できたのは、丁寧に違和感を表出しさらに被ばくについての予防原則を理解できる人でした。
予防原則は科学の有限性を認めるために科学主義的な人々に嫌われますが、20世紀の多くの環境汚染の事例から、予防的にリスクを回避したほうがいいことは明らかであり、予防原則に限界があるとしてもせめてきちんと調査や検査はし、その結果をもとに対策をたてるという当たり前の民主的な公衆衛生対策、汚染対策ができていません。
これは民主主義が崩壊しつつあるからです。

これらを無視して巨大資本や国家の暴力を止めることはできません。
ナンシーはこういいます。

明日のために平等性を要請すること、それはまず今日それを肯定することであり、同じ身振りでもって破局的な等価性を告発することである。それは、共通の平等性、共に通訳不可能な平等性を肯定すること、非等価性のコミュニズムを肯定することである。

生活で、こんにちはやさようならをいう、料理をする、空を見る、これらは明日の天気を見たり今日の自分や他者の健康を気遣うということであり「明日のための平等性」それを今ここで肯定することです。
眠りは眠気を肯定しないとできませんし、
起きるにも肯定的な力が要ります。
コーヒーの味にも、今日の天気にも「敬意」をもつこと
そういう誰しもが持っている、そしてそれぞれが個性を持っている日々のふるまいから
それと同じやり方で当然のこととして
原発事故や秘密保護法やありとあらゆる科学的政治的な問題性を告発すること。

確かにこれは大切です。僕はナンシーに学びます。
僕の言いたいことだったように思います。




他の図書館で今日借りた本は以下。

共同研究 転向1 (東洋文庫)

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原水禁署名運動の誕生

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戦後日本の思想 (岩波現代文庫)

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歴史の主役はみな病人―歴史を動かすもの、汝の名は病気なり

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産廃ビジネスの経営学 (ちくま新書)

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震災後の自然とどうつきあうか (叢書 震災と社会)

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反省させると犯罪者になります (新潮新書)

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10代のメンタルヘルス(全5冊)―体や環境に変化の多い現代のティーンズのために

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