細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

『かぐや姫の物語』は世界の終わりを物語るのか。

※映画のネタバレが含まれておりますので、映画をまだご覧でない方はご注意ください。
かぐや姫の物語』(以下『かぐや姫』と略す)を昨日見た。この日記は新年の日付で更新されるのかもしれないが書いているのは31日からである。

高畑勲脚本の『かぐや姫』は後に書くいくつかの批判と疑問はあるとしても、相当な傑作である。
こう断言する資格は私にはないかもしれないが、そう感じたのである。

かぐや姫が山の中の竹やぶから生まれ、みるみる成長していく中で、はいはいしたり、よちよち歩きしたりやがて立ち野山を走りというシーンがある。
たくさんある。この子供としての、竹の子と呼ばれるかぐや姫や周囲の子どもたちの動きは正確無比に、子供や人間の肉体と精神の動きを研究して描かれていると思える。子供らしい動きとかではなく、ひとが成長するときに取り得る姿勢、反射というものが客観的に、そして誰にでもわかる形で描かれているのである。
子供たちの住む山や林はある程度開かれた山であり恐らく、かぐや姫の生まれたであろう平安の山ではなかろう。おそらくこれは高畑や製作者が知り得る限りで最も自然の残された山の記憶なのだ。しかしそういう里山であっても、自然と私たちはここまで肉体としてふれあい、事実私たちをはぐくんできたのであると思わせる。
私は大阪の北部の出身で山や川に囲まれている。私が生まれたころにはまだ農業の町の面影を残していたのだ。したがって私も雪の降り詰む山や藁の転がる田畑にまみれて遊んだことがある。
自然というものは、人間にとって脅威であるとともに、フリースペースであり「コモンズ(共有地)」である。そういう場所で人は遊び、育ったのだと感じさせる。これはロマン主義ではなく事実だ。
事実として、成長の基盤や環境として心身を羽ばたかせる場所があったのだ。
環境破壊や資本主義や放射能が奪ったのはこのような空間だ。
子供はすでに何重にも搾取されている。
精神疾患にかかったり、アレルギーなど環境破壊の影響を受ける子供たちが
多いのはその結果だ。
自然は厳しさもあるがそれなしには人は生きていけない。
かぐやもまた町にいくことでそれを奪われる。

かぐや姫は大きくなるにつれ、美しい女性になり、貴族の世界に入っていく。この自然から貴族=観念世界への参入は非常に象徴的でおそらく平安の文学者や物語作者もまた、階層構造や人工構造物や衣装やしきたりで囲まれた都市の貴族空間を、人間同士が触れ合うだけの、ある「失われた世界」として甘受していたのではないか。高畑の描写はそういう歴史的考察を含んでいて、そこで、欲望や「見る−みられる」関係に押し込められるかぐや姫の姿は非常に哀切を含むものである。
そしてその哀切は今の私たちの正確な写し絵でもあり、悩み苦しむかぐやはわたしたちであるかのようだ。
高貴な人間のいます「御簾」の後ろとは、人間と人間が視線を交し合う世俗世界の向こう側として「こちらからはみえるが、むこうからはみえない」位置として仮構されている。見えないものは欲望を喚起し対象の価値をつりあげる。
かぐやはそうして、貴族の欲望の対象として羨望の的となる。
そして有名な「かぐやを宝にたとえた貴族たちに宝をとってこさせる」シーンが登場する。
欲望と価値のゲームの中で、競争に翻弄されるかぐや。これは自然の身体を失い、ただ仮初めの価値に囲まれるかぐやはまさに今の私たちそのものだ。
ここには事実はなく、ないために人々の姿は醜く滑稽である。
こういう文明の姿をいつまで続けるのかという高畑や高畑の映画作りを支援した日本テレビ元会長故氏家氏の声が聞こえてくるようだ。氏家は読売新聞や日本テレビに入る前、読売の渡辺恒雄ナベツネ)や故堤清二セゾングループの生みの親で別名辻井喬として詩人)らと左翼活動をしていた。転向した彼らはのちのマスコミや消費社会の形成、原発推進でも重要な役割を担っていた。
つまり氏家らには日本の爛熟した資本主義を作った役割があり、それは非常に子供や自然をゆがめてきた。氏家が巨費を投じて高畑の映画製作を311直後に亡くなるまで見守ってきたのには、何か懺悔の気持ちとそれを越えた何らかの目標があったように思えてならない。それがよいものか呪われたものなのか両者なのだろうと思うが私はただならぬものを感じる。

そして、ついにかぐやは帝=天皇の寵愛を受け、これをけがれたものとして拒絶するわけである。世俗の最高権威を「穢れ」とする点でこの映画はその狙いをはっきりさせる。聖性として仮構されている天皇なるものまでも含めてそれはnatureでもpureでもないと言い切るのだ。ここで少女に重荷を担わせる点は宮崎映画とともにある限界を感じないでもないが、この日本の歴史において隠された自然や聖なるものは天皇の向こう側には存在しないという点でこの作品は神話批判ともなっている。
しかし同時にかぐやは禁を破り朝敵ともなってしまっているのだ。
またこの時点で地上世界が恐ろしい、そこから月へ帰りたいという願いも出てきてしまい、月から地球へ「堕ろされた」かぐやは帰らねばならなくなってしまう。欲望と穢れをはねのけることと、不本意なものを否定することが重ね合わせられていることは神話世界の限界であるようだ。
つまりこの世界には自由意思がないのである。
根源的に見たからか、それとも神話というものがそうなのか。
おそらく神話というものを作り出してしまう人間のニヒリズムと猜疑がここであらわれてきている。しかしその外へは人間である限り出られないと高畑は言っているように思える。
ここも年来の高畑の研究が実ってきたもののように思われる。氏家のほぼ同年輩の網野義彦の視座をさらに跳躍させているかのようだ。
しかし自由意思は本当にないのだろうか。世俗を否定することと、自分が嫌なものは嫌というのは重なってしまうものなのか。
根源的な否定はいけないことなのか。
私はここで立ち止まってしまう。
ここには私たちが乗り越えるべき、潜り抜けるべき深い問いがあるように思える。
ただかりそめの答えを与えるとすれば、世俗の間違いを批判し真実に接近するものは死をも覚悟せねばならないという人類に与えられた経験則であるのかもしれない。
恐るべき答えであるのだが。

そして世俗の聖性を超えるものとして、みえてくるのが、かぐやが幼いころ憧れた山男の捨丸であり、捨丸はおそらく被差別民族である。宇宙人かぐやは、捨丸と性交と思しき絶頂を迎える。しかしこれも終わった後の光景のように見えて、カタルシスはない。
それどころか悲しい。捨丸は凡庸な家庭人になっている。
しかしただそういうものを選ぶところにも幸せはあるはずなのに、
そうはさせない。非情な映画である。

最後は月の世界からのお迎えのシーンとなる。
ここには、生命が否定された仮面のような真っ白い顔のものたちの終わりなきリズムが響き渡る。
月の世界は無機物で満たされて生命の兆候がない。そこへ輪廻として帰っていくという風にこの物語は作られているが、むしろ欲望や仮象の世界を作り上げた人間の罰の捧げものとして、かぐやが捧げられているようにも見える。また、この死の世界に必ず帰らねばならないとする見方は原子力事故で放射能をまき散らし生命を破壊する私たちに向けられた批判のようにも思える。

この作品で高畑は宮崎駿の出せなかった答えを出し、その少し後に上映される『永遠の0』なるものにも徹底的な掣肘を加えている。

そしてそれらを越え、人類に「このままでいいのか」と呼びかける。おとぎ話のリメイクであるから誰もそうは見ていないようなのだがこれはそういう恐るべき物語であり、私たちはハリウッド映画のようなものではない、真実の世界の終わりに向き合うよう促されているのだ。
この映画が多くの人にそのような警鐘と受け止められていないとすればそれは真実の終わりと退廃が私たちに近づいていることのあらわれともいえなくもない。

それゆえ終わりを直視しそれを防ぎたいとするものは
この映画を括目してみるべきと私には思われる。