細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

橋下市長の体罰に関する考え方への懸念

 高校生が教師による体罰を苦にして自殺した事件で、大阪市長が奇怪な論理を述べているので気になっている。「体罰は容認するがその後のフォローアップが大事」といっていて、こんなときに不謹慎な論調であると首をかしげた。
 それとともに、亡くなった男子生徒の冥福をお祈りしたい。前途のある青年が悩み苦しみ亡くなったことはとても悲しいことだ。それを「大失態」というのも違和感があるがそれは置いておく。
 

大阪市立桜宮高校2年の男子生徒(17)が、主将を務めるバスケットボール部の顧問の男性教諭(47)から体罰を受けた翌日に自殺した問題で、橋下徹大阪市長は8日、記者団に対し、「きちんとした対応が取られなかった。教育現場の最悪の大失態だ」と高校側の対応を批判した。「教育委員会に任せておけない。僕が責任をもって引っ張っていく」と話し、事実関係の解明について積極的に関与する意向を表明した。

 橋下市長は、自殺をまねいた背景として「子どものSOSをきっちり受け止めるチャンネルが整備されていない」と指摘。一方で、「僕が(子どもに)手を上げることもある。親がそうだから学校現場でも(体罰は)ある。そうなったときに事後フォローをどうしないといけないのかだ」と話し、体罰が存在するとの前提をもとに、体罰が起きた後の生徒への対処方法が重要との認識を示した。
http://mainichi.jp/select/news/20130109k0000m040060000c.html

 以前から、ジャーナリストや一般市民への過剰な攻撃的言動がみられる大阪市長。自分の攻撃は過剰に正当化し、相手がたとえ合法的な手続きで批判しても、まともに答えなかったり切れたりすることが続いている。記者会見や市議会でも見受けられる。
 例えば私の知るところでは、災害瓦礫の問題では、説明会での過剰警備があり、行き過ぎた逮捕などが憲法学者の間でも問題となっている。
 人からの攻撃には何倍返しにしてもよいと思っているのではないか。
 
 本題に戻ろう。今回の事態である。
 すでに10月の有識者会議ではこんな発言も。体罰の過剰な肯定論者と言える橋下市長に、教師の体罰問題への妥当な対処は可能なのか。そもそも市長の考え方にも疑問が浮かぶ。

橋下氏は、計画に盛り込む施策案で、いじめなどの問題行動を起こす子どもへの対応が出席停止となっていることについて、「先生にもうちょっと懲戒権を認めてあげられないのか」と発言。「僕はもみあげつまんで引き上げるくらいはいいと思う」と述べ、もっと強い対応を求めました。

 「胸ぐらつかまれたら放り投げるくらいまではオッケーだとか。けられた痛さを体験しないと過剰になる。けられた痛さ、腹どつかれた痛さがわかれば歯止めになる」といい、「懲戒権について文科省のぬるいガイドライン以上にしっかりと一つの指針はだすべきだ」と述べました。


橋下氏、体罰あおる/「大阪市独自の指針必要」このネット版赤旗の記事を読んで、おそろしくなり、もとの資料を探してみた。

第2回 大阪市教育振興基本計画策定有識者会議 会議録

http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/cmsfiles/contents/0000186/186370/2kaikaigiroku.pdf

ここでの問題の発言を下に引用する。

資料 2−1 の学校サポート改革で、先生をサポートするために、いじめや問題行動を起こす子ども22のために出席停止の積極的な活用とあるが、もっと教員の懲戒権を認められないか。今はちょっと立たせただけで体罰と言われたりする。いま、体罰は禁じるという建前だが、教員の懲戒権はある。全部体罰は禁止というネガティブな言い方でなく、懲戒権はどこまで認められるのか、大阪の子どもたちには懲戒権が必要だ、と打ち出してもいいのではないか。いまはすぐ体罰の処分事案があがってくるが、本当にひどい例は別として、教員が縛られている、怒れなくなっている印象を受けている。懲戒権のガイドライン、立たせる、廊下に出す、これくらいはいいだろうというのを示してあげられるといい。体罰をやってもいい」と言って府には止められたし、体罰を認めるわけにはいかないが。何か文句が出てきたら文部科学省とのことは私が引き受ける。
・そして教員が懲戒を行った場合には、学校協議会に報告して、懲戒権の行使について、行き過ぎを止めるとか、審査してもらえればよい。ぜひ議論してほしい。そうすれば、しんどい学校の先生も頑張れる方策になるのではないか。教員が生徒に毅然とした態度で臨むための武器を与えるべき。難しい問題だと思うが大阪からチャレンジしてほしい。有識者に一定の方向性を出してほしい。

 要するに児童生徒が、教師から見て問題がある行動をしたとみなされるとき、「懲戒権」をどのように行使するかということで、橋下氏は知事時代から体罰肯定であったことがわかる。

中原委員:
体罰、懲戒権について、文部科学省も具体のガイドラインを出している。私の認識が誤っていれば修正をお願いしたいが、私は、授業中うるさく注意しても聞かない子を立たせるのはOK、それでもうろうろするような場合に必要な範囲で廊下に出すのもOK。放課後に教育的な指導で居残りできちんと座る練習をさせるのもOKという認識だ。身体的苦痛を与えるような、バケツを持たせるとか、正座して膝に重いものをのせるのは体罰になるのでだめと理解している。その辺の区別は、ベテランの現場教員でも十分ついていない。そういうことを和泉高校でも確認しながら進めている。そういうガイドラインを明確に校長先生を通じて教員に出せば、そんなに文部科学省とぶつからなくて済むのではないか。
橋下市長:
文部科学省の出したガイドラインをもとに市で新たに作ってもいいのではないか。私は、一例としては、もみあげをつまんで引き上げるくらいまでしてもいいと思う。例えばそれくらいの懲戒権がなかったらだめだ。実際にこの場でやるかどうかは別にして、文部科学省ガイドラインだけでない、市の必要なガイドラインを議論できないか。
・生徒が他の生徒に危害を加えようとしたら、それを止めるのに有形力の行使をしないといけない。生徒が有形力の行使をしてきたら、大人としては、過剰防衛はだめだが一定の有形力の行使をしていくくらいはしないと。殴られっぱなし、蹴られっぱなしを我慢することはない。胸倉をつかまれたら放り投げてもいいくらいではないか。
・そう教育委員会が決めれば、先生が助かる。最後にそれを決めるのは、計画であり、市長の決定権と責任だ。政治で引き受ける。


というわけで、目を覆うような発言が続くのだが、市長がお話になっている文科省、そこから出ている通知を読んでみた。

学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰に関する考え方

1  体罰について

(1)  児童生徒への指導に当たり、学校教育法第11条ただし書にいう体罰は、いかなる場合においても行ってはならない。教員等が児童生徒に対して行った懲戒の行為が体罰に当たるかどうかは、当該児童生徒の年齢、健康、心身の発達状況、当該行為が行われた場所的及び時間的環境、懲戒の態様等の諸条件を総合的に考え、個々の事案ごとに判断する必要がある。

(2)  (1)により、その懲戒の内容が身体的性質のもの、すなわち、身体に対する侵害を内容とする懲戒(殴る、蹴る等)、被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒(正座・直立等特定の姿勢を長時間にわたって保持させる等)に当たると判断された場合は、体罰に該当する。

(3)  個々の懲戒が体罰に当たるか否かは、単に、懲戒を受けた児童生徒や保護者の主観的な言動により判断されるのではなく、上記(1)の諸条件を客観的に考慮して判断されるべきであり、特に児童生徒一人一人の状況に配慮を尽くした行為であったかどうか等の観点が重要である。

(4)  児童生徒に対する有形力(目に見える物理的な力)の行使により行われた懲戒は、その一切が体罰として許されないというものではなく、裁判例においても、「いやしくも有形力の行使と見られる外形をもった行為は学校教育法上の懲戒行為としては一切許容されないとすることは、本来学校教育法の予想するところではない」としたもの(昭和56年4月1日東京高裁判決)、「生徒の心身の発達に応じて慎重な教育上の配慮のもとに行うべきであり、このような配慮のもとに行われる限りにおいては、状況に応じ一定の限度内で懲戒のための有形力の行使が許容される」としたもの(昭和60年2月22日浦和地裁判決)などがある。

(5)  有形力の行使以外の方法により行われた懲戒については、例えば、以下のような行為は、児童生徒に肉体的苦痛を与えるものでない限り、通常体罰には当たらない。

○  放課後等に教室に残留させる(用便のためにも室外に出ることを許さない、又は食事時間を過ぎても長く留め置く等肉体的苦痛を与えるものは体罰に当たる)。
○  授業中、教室内に起立させる。
○  学習課題や清掃活動を課す。
○  学校当番を多く割り当てる。
○  立ち歩きの多い児童生徒を叱って席につかせる。

(6)  なお、児童生徒から教員等に対する暴力行為に対して、教員等が防衛のためにやむを得ずした有形力の行使は、もとより教育上の措置たる懲戒行為として行われたものではなく、これにより身体への侵害又は肉体的苦痛を与えた場合は体罰には該当しない。また、他の児童生徒に被害を及ぼすような暴力行為に対して、これを制止したり、目前の危険を回避するためにやむを得ずした有形力の行使についても、同様に体罰に当たらない。これらの行為については、正当防衛、正当行為等として刑事上又は民事上の責めを免れうる。

問題行動を起こす児童生徒に対する指導について(通知):文部科学省

 けっこう具体的に書いてあり、とくに橋下市長が述べ立てるような、過激な議論をする必要はないのではないか。例えば子供が他の子どもををぼこぼこにしていた場合それを教師が力づくで阻止することは、「正当防衛」と書かれている。

 市長は弁護士出身でありながら、危険な場合の有形力の行使が正当防衛にあたるということを知らないのであろうか。

 また教師がおびえて手が出せないくらい深刻な暴力的なケースがあるとすれば、これは警察を呼ぶしかない場合もあろう。
 もちろん文科省の通知が完璧でもない。人間で形成されている現場である以上必要なのは、より完璧なマニュアルではなく、シンプルな原則の確認と、その制度が疲労していないかという分析と、人々の行動の実情の調査と、それについての現場での闊達な議論である。それが汲み上げられて初めて現場は生き返る。
 誰かが大ナタを振るえばなんとかなるというものとは到底思えない。
 大ナタを振るうとしたら、そのトップに適切な見解・見地がないといけない。
 市長にそのようなものがあるか疑問である。
 いずれにしろ、市長のトップダウンで解決する話ではなく、現場の声を柔軟に、かつしっかり汲み上げなければならず、市長の用いる粗雑な論理は、現場に混乱さえもたらしかねないように思える。おりしも公募区長の辞令が下りたようだが、ほんとうに即戦力になるのかも見ていかねばならない。

市の教育委員会の長谷川惠一委員長から辞令が交付されました。そして、長谷川委員長は「民間で培った組織経営能力や情熱に期待しており、新たな発想で魅力ある学校づくりに取り組んで欲しい」と訓示しました。
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20130107/4471871.html

 なんだか心配な訓辞である。

 ともあれ市長の有識者会議での発言はどう斟酌してもあまり適切には思えない。
 体罰問題に本当に取り組めるのだろうか。より悪化しないだろうか。
 表面的に体罰教師をとりしまっていくだけなのではないだろうか。

 邪推かもしれないが、熱意とやらで、やたらめったらに折檻をすることを正当化したいという独自の「教育哲学」をお持ちのように思えてならない。
 また文科省や困難な教育現場にカツを入れる的な政治的意思に従って、体罰容認的な論陣を張っているようにしか思えない。

 子どもや教育現場をだしに使って己の権力意志を伸長することこそ、市長が振るう「過剰な暴力」あるいは「見当違いの処方箋」のように思える。

 もちろん困難な教育現場について私も心配はたくさんある。しかしなぜこうなっているのかということについての根本的な分析と省察もなく、危険な予断を持っていると思しき市長が教育行政を左右してしまうことの危険を私は強く感じるものである。