細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

瓦礫問題のリスクの見方について

平川秀幸先生のサイトから拾ってきた。

1.(リスクに関する)確率や期待値の計算は、人と人との間の社会的な関係のなかでは全面的には通用しない。たとえば人は、「その確率は本来小さかった」ことを理由に、ある行為の責任を逃れることはできない。たとえそれが非常に低い確率の出来事―「不運」―であっても、その「不運の分配」(不運な出来事に対する責任の分配)は、被害にあった人だけに負わせてはならず、個人よりは企業、弱者よりは強者の側により多く振り分けられなければならない。
2.原子力発電所の安全性について少なくとも危惧があり、他方で国民全体に対するエネルギー供給を確保するという課題がある中でどのような政策を決定するかは、根本的に「政治的決断」の問題であり、行政担当部局や、責任主体のはっきりしない技術専門家たちの「科学的判断」だけで行なわれてはならない。

3.社会的に大きな影響をもつ可能性のある事象について、「その確率は0.001」だというような計算をするのは技術専門家の役割だとしても、それを「十分小さいから無視してよい」とか「無視できない大きさだから再検討しよう」と判断するのは、一つの「政治的決定」であって、その結果については政治的に責任がとられなければならない。その点で、リスクのように不確実なことについての意思決定では、誰がどのような手続きで決定し、その責任を誰が取るのかを明確に定めたルールが必要である。

4.リスクを含む社会的行為の決定について完全に「合理的な」あるいはどのような立場・意見・信条等々とも無関係な「中立的な科学的判断」というものはありえないことを前提にし、その上で一人一人が真剣により多くの専門家の意見を聞き、主体的に判断して決定を下すプロセスに加わることができることが、民主的社会におけるリスク問題にかかわる合意形成のルールであり、人々に対して責任を持って具体的な行動計画を提示し、人々の賛成を求めることが政治的指導者の義務である。
STS News & Remarks in September & October 2002

ここにがれき問題の焦点というか例えば橋下市長なり、細野大臣なり、広域連合長の問題点が網羅されていると思われる。



リスクに関する)確率や期待値の計算は、人と人との間の社会的な関係のなかでは全面的には通用しない。たとえば人は、「その確率は本来小さかった」ことを理由に、ある行為の責任を逃れることはできない。


そもそも環境省が8000ベクレルでも一般廃棄物扱いできるようにしてしまったことは、このような確率計算の問題すらもすっ飛ばすトンデモ決定である。



その「不運の分配」(不運な出来事に対する責任の分配)は、被害にあった人だけに負わせてはならず、個人よりは企業、弱者よりは強者の側により多く振り分けられなければならない。


東電や政府が負うはずの汚染責任を取らず、全国民に均等にリスクを負担させ、体質的に虚弱だったり、放射線感受性が強い子供にも均等に曝露・被ばくを強いるという考え方は異常である。異常である上に了解可能な必要性がない。がれきが危険ならば、まず被災住民にそのリスクを説明し、撤去したうえで処理には慎重を期すべきである。



社会的に大きな影響をもつ可能性のある事象について、「その確率は0.001」だというような計算をするのは技術専門家の役割だとしても、それを「十分小さいから無視してよい」とか「無視できない大きさだから再検討しよう」と判断するのは、一つの「政治的決定」であって、その結果については政治的に責任がとられなければならない。


橋下市長はクリアランスレベルが年10マイクロシーベルトであるという機械的計算で、問題はないとして人々を説得させようとしているが、問題になるのは内部被曝である。またバグの破損、バグがそもそも放射性物質捕集用に作られていない。これらを想定すらしていない。こういう常識的現実から我々はリスクを考えている。さらにいうと、ごみ焼却炉作業員に高曝露を強いていいのかというところも詰められていない。
それらのリスクへの懸念を無視ないし軽視する決定は、細野大臣、広域連合、大阪府知事大阪市長がしており、その責任は誠に重大である。



その上で一人一人が真剣により多くの専門家の意見を聞き、主体的に判断して決定を下すプロセスに加わることができることが、民主的社会におけるリスク問題にかかわる合意形成のルールであり、人々に対して責任を持って具体的な行動計画を提示し、人々の賛成を求めることが政治的指導者の義務である。


主体的にリスクについて判断し材料を集めている市民を「危険を煽る」とか「きりがない」と除外する政治的手法は到底開かれたリスク分析を阻害している。
行動計画のあちこちの批判的検証にも「知らぬ存ぜぬ」で数万件の市民の声、批判的な科学者の分析を無視し続けている。
上に書いた人々はこれらに誠実に対応し、計画の中止、見直し再検討を早急に行うべきだ。
そうでないと彼らは無責任だということになる。
責任を取る気持ちもその責任の大きさをわかってもいない連中に
到底政治的決定を任せることはできない。

日本のこれまでのあらゆる法体系は放射線の健康影響にしきい値はないとして
特別な管理を設けてきたはずだ。
しかも今回は災害廃棄物の大量焼却という異例の事態。リスクが少ないと見積もることができたとしても、それが追加の被ばく・曝露を加えてほしくないという人々の声にこたえたことにならない。

上記の文章にもあるがその政策は必要なのか、誰にとってどのように必要であり、代替案があるかどうか、そもそも責任主体は誰なのか明らかにしなければ、公害事案に発展してしまう懸念なしとしない。
ゼロリスクはあり得ないとしても追加にリスクを与えることで、他の被災した人間が救われるとは思えない。
改めて被災者のほうに向きなおり、被災者が何を求めていて、自分たちは何ができて何ができないのか、してはならないのか。環境省や大阪の首長・広域連合長に確認と再検討を願いたい。
このままでは原子力安全神話と同じ轍を繰り返してしまうだろう。