細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

貧困と剥奪と原発事故と

最近社会保障社会福祉の記事を書いていなかったので書くことにします。
いい記事を読んだからです。後半、原発事故へつなげようと思いますがうまくつながっていないかもしれないです。

 *生活保障の仕組みをよく知ることで働き方、働かせられ方を変えるきっかけに

「生活保護」座談会詳報(1)受給者200万人突破

道中 今までは「探せば仕事は必ず見つかる。働けば食っていける」という神話があり、20歳代から50歳代の稼働年齢層は生活保護に入ってこないと想定されていた。ところが非正規の労働者の増大などで、働いても食べていけない層が増えた。生活保護は、最後のセーフティーネット(安全網)なので、生活が苦しい層が受給者となるのはやむをえない。問題は、生活保護に至る前の、一次的なネットが脆弱になっていることだ。医療、雇用、介護、年金など他の社会保障のほころびを生活保護が支えているのが実態で、受給者増に拍車をかけている。社会政策の貧困化とも言い換えることができる。

 阿部 お二人の意見に同調するが、報道などで、200万人を強調しすぎるのはどうかと思う。人口に占める受給者の割合をみると、急激に増大した今でも、他の先進諸国の数分の1程度だ。本当に困っている人たちが、受給できるようになった。それは喜ばしいことであって、悲観するべきことではない。現状は、グローバル社会の性(さが)というか、社会として背負わなければならないコストと考えるべきだ。一番増えているのは高齢層で、高齢化が進む以上、今後、経済が好転しても人数は増える。200万人だから、社会保障が破綻するといった議論に陥りがちだが、冷静に今の事態を受け止めなければならないと思う。

 岡部 人口構造や、家族、産業、労働などの社会構造が大きく変化している時に、社会保障そのものの制度設計が問い直されている。また、本来、生活保護の対象となる人が、実際に受けているのかどうかという捕捉率は非常に低い。ある意味で、最低生活以下の生活を余儀なくされている人を掘り起こして、制度利用につなげることをも考えるべきだ。

わかりやすい整理です。これを実際の政策につなげないといけません。

「生活保護」座談会詳報(2)就労支援をどうするか

阿部 私が強調したいのは、雇用の創出だ。それと、雇用の中味の問題だ。今は、普通の人でも正規雇用で働くのは大変な時代になってしまった。生活保護受給者は心理面や家族に問題を抱えているケースが多く、いきなり「企業戦士のように24時間働いて」と求めても厳しい。やはり、労働市場の開拓が必要で、もう少し労働者にも優しい働き方、柔軟な働き方を選べるようにならないと、結局のところ、いったん就労してもまた失職する、が繰り返されてしまう。

病人でも引きこもっている人でも職業訓練など受けて晴れて就職、また再発、あるいは傷ついて戻ってしまうということはよくあることで、これは今まではその人の根性がないせいにされてしまっていましたが、むろん本人の心身の状態の改善とともに、世の中の「働かせ方」を改善しないとどうにもなりません。

岡部 阿部さんが言われた、優しい働き方ですが、釧路市の取り組みを紹介したい。釧路市では、市がNPO事業所の協力を得て、生活保護受給者にボランティアや就業体験をしてもらい、自立を促す事業をしている。一般労働市場で、企業戦士のように働くのも選択肢の一つだが、なかなか労働市場の要請するスキルだとか知識だとかに答えるのは難しい。

 病気や障害などがある受給者の場合、「半福祉半就労」といった中間的就労も選択肢にするべきだ。賃金が伴わないボランティアなどの社会参加を広い意味での就労ととらえて、評価する仕組みがほしい。

 阿部 そういう「半福祉半就労」とともに、私は一般労働市場も改革していかなければならないと思う。これは生活保護だけの問題ではない。日本はこれから、将来的に労働力が減っていくのは目に見えていることなので、経済界としても真剣に取り組むべき課題のはずだ。

 例えば、女性が働きやすい職場を作ること。女性の多くは、家族のケアもあり、男性と同じように夜遅くまで働くような働き方は求めていない。本当は、男性もそうだろう。子どもの寝顔しか見ることができない働き方でしか、まともな収入が得られないような状況では、日本はどうしようもない国になるのでは。

つまりバリアフリー化とワークシェアを進めながら適宜、諸手当を支給するような枠組みを整備しないと高齢化の上にさらに原発事故や震災による影響で心身に痛みを抱える人が増加しつつありますので、持続的な社会は不可能です。私が、原発事故と震災は社会福祉社会保障と経済の問題でもあるのだと思ったのは、人間の心身に加重な負担を与えすぎる働かせ方、働き方をする社会や身体の制度を改めない限り、私たちは滅びかねないということです。


  *生きるチャンスそのものの剥奪に目を向ける

「生活保護」座談会詳報(3)親と子の貧困連鎖

まず、貧困の連鎖があり、生活保護世帯もその現象の一部と解釈するのか、働かない親をずっと見てきた子どもは働く気が起きにくいだろうという、福祉の文化の世代間連鎖に着目するのかで、違う話になる。日本の場合は、前者の要素が強い。貧困の連鎖を教育面で断ち切る一つの手段としては、奨学金制度などがあるが、現状は、諸外国に比べて見劣りする。また、教育政策が事情のある生徒に対応できていない。もう少し、教育に福祉的な手法を導入しないと、貧困の連鎖を食い止めるのは難しいのではないか。

教育の福祉的側面を理解して、今までとは異なる教育の制度にしなければ、今後の社会は持続的ではないと思います。ひきこもりや不登校やいじめや発達障害が突き付けたのは、それらの現象は不況時ではなかったにせよ、教育がどういう社会的位置づけをもっていいかがわからなくなっていたからではないでしょうか。そしてそれが不況になって、さらにはっきりとしてきました。お金がないので、学校に通わせることが難しいことすらあるということです。それまでは好景気などで格差がある意味で隠蔽されており「同調圧力」と「差異の競争」の場になっていて、その「差異の競争」からこぼれた人間は「逸脱例」とされていたのでしょう。
しかし全体の経済力が下がってくるとそれどころではなくなってきます。
引用します。

児童施設に「入所する子どもを高校に行かせてほしい」とお願いしたところ、「この子は勉強が嫌いです。弁当を食べに行くだけだから無駄です。義務教育を卒業したら、出て行ってもらいます」といった答えが返ってきた。その時、私は「この子には、弁当を食べに行くことが大事なんです」と重ねて、お願いをした。15歳くらいで、中学を卒業して社会に出ても、ことごとく挫折して、失敗体験ばかりを重ねることが多い。高校の3年間で、習得して欲しいのは、知育よりも、社会的な成熟性としてのソーシャルスキルだ。つまり、人間関係の間合いがとれたり、言葉で人間関係を調整できるような要領とか、内面の生活力だ。そうしたものを身につければ、自分一人で生きていけるようになる。「弁当を食べるだけでいいじゃないか。3年間がこの子の将来を左右するんだ」と粘って、子どもを高校に行かせることができたという経験もある。いきなり社会に出た子どもが人生の節目でつまずくと、「どうせ僕なんか」「私なんか」と諦めてしまうことが多い。それは社会の損失だ。そうならないように、学習指導を行い、高校に進学してもらう必要がある。親自身も失敗経験を重ねており、努力しても報われなかったことから、子供に期待を抱かない人が多い。親の教育への無関心は子供にとって最大のリスクとなる。親の意欲を高める支援が大事だ。

これは貧困なのか親の養育が難しい状況かわかりませんが児童養護施設に入る必要があるくらいの困窮を引き金にしていますが問題は無力感、無効力感をさらに加速させられないようにするにはどうしたらいいか。自分が何をやっていいかわからない、何かをやってもどうせ失敗するという状況に何のサポートもないと、自分が行為する意味が感じられなくなってきます。この場合「とにかく弁当を食べに行く」という形で最低限の社会的な関係維持力を下支えする機能を紹介しています。けれども、義務教育も制度が硬直化していますので、大胆な改革が必要でしょうし、民間の力もいるでしょう。しかしそれは例えば大阪の橋下知事が提唱しているような愛国心の強化や、指令に従わせる教育行政改革とは異なる方向ではないでしょうか。「自分でなんとかしてみる。そこで無理なものと可能なものを悟る」ということが大事です。そのためには権威主義的人間を生産するのは逆効果です。エーリッヒフロムがいうように「自由からの逃走」が始まり社会は変革の機会さえ奪われます。

阿部 生活保護制度は言わば応急措置。緊急の時、血が出ているから、とりあえず止めるというものであって、必要なのは、日本社会全体の体質改善だ。

 ――高齢者や女性への対策を具体的に考えたい。

 道中 元気な高齢者は多く、雇用政策に力を入れるべきだ。「住まい」の問題も重要。住む場所さえあれば、あとは何とかなるものだ。ヨーロッパのように、生活保護とは別に住宅手当を創設すれば、生活保護を受給せずに年金と賃金だけで暮らせる高齢者がたくさん出てくるだろう。公営住宅の活用も検討してほしい。生活保護は、扶助が8種類に分かれて複雑な制度となっているため、入りにくくて出にくい側面もある。例えば、医療の費用が必要なときは、医療だけ、住宅の費用については、住宅手当だけとか、使いやすくして、トランポリンのように、いったん落ちてもはい上がれるというような出口政策を練らないといけない時代になったと思う。

 岡部 基本的には年金制度をどう考えるのかだ。現行制度で対応するなら、基礎年金を増額し、失業者を対象とする住宅手当を高齢者にまで拡大して支給し、カバーすることになるのではないか。

 阿部 女性の年金額の低さは見落とせない。国民年金を受給する女性の多くは年金額が年間60―80万円程度。生活保護を受けずに頑張っている人も多い。今後、状況が悪化するのは明らかで、最低保障年金の検討が急務だ。ただ、社会保障給付費の中で年金の割合は大きく、これ以上増やせない。年金受給者の中で配分を再考する必要がある。

解説は不要だと思うのですが生活保護スティグマといって被差別感が強いのです。それは所得調査が行われたりすっぽりと生活がまるまるかかえられる制度だからです。僕も同感なのですが「家賃が払えない」「病気がある」「うまく人づきあいができない」などその人によって様々な難しさの種類があるのです。そしてそれらは同時にひっかぶる場合もありますし、「がんは一応治癒して働いているが、所得は十分ではなく後遺障害もあり治療費が心配」という人と「人付き合いが下手でうまく挨拶さえできない」という人ではニーズや支援がちがうのです。それぞれの事情に合った小さな手当を組み合わせられるようにしたら良いと思います。むろんすべてお金の援助がいる例もあるでしょう。それは年金改革と連動させることが必要なのかさらに検討が必要でしょう。
ただこういうのは直近自治体でやる必要があります。したがって私は巨大自治体や道州制も大事なのかもしれませんが、小さい自治体でサービスがいきわたるという社会福祉がこれまで目指してきた方向を適切に実施するほうが大事であり、これには小さな単位にお金が行き届くようにお金やエネルギーや食糧自給なども変化させる必要があり、中央はそのプラットフォームとして、公平に財を配分する機能を目指せばいいと思うのです。あるいは広域の気象災害などの問題とかですね。

「生活保護」座談会詳報(4)ばらつきがある「貧困」の認識

 ――生活保護に対する国民の意識は、「お金を渡し過ぎでは」から「当然の権利だ」まで振れ幅が大きい。今後の見直しを進める上でも合意形成は大切だ。

  岡部 憲法25条で、「健康で文化的な最低限度の生活」は権利として担保されており、その具体化されたものが生活保護制度だ。生活保護制度は、生活の最低限度を保障すると同時に、所得の再配分機能も併せ持つ。さらに、社会をまとめあげる役割も果たしている。こうしたことを研究者、行政、メディアが丁寧に説明していく必要がある。生活保護は本来、権利であることを前提に議論を進めるべきだ。しかし、日本は、働いて自分の生活を支えるのは当然という文化も強いため、生活保護は恥といった意見も出やすい。自己責任で担えない事態に対しては、国家責任で生活保護をはじめ、社会保障制度を成立させ、展開してきた歴史がある。その事実や論理をもっと認識しなければならない。

  阿部 私は、生活保護の受給者がかわいそうでしょという、権利とか人権に訴えるだけで納得いただけないときには、お金の話をすることも重要だと思っている。若い生活保護受給者が2年間就労支援を受けて正社員になった場合、そのまま生活保護を受け続けた時に比べて、生涯での税と社会保険との政府の収入がどうなるのかを推計した。すると、正社員になると1億円近く、政府の収入が増えた。集中的にお金を投資することで、その人が税金を納めるようになれば、長期的には国の財政にもプラスになる。高齢者については、年金制度の不公平が問題だ。ちゃんと働いてきて、認められて免除を受けてきたのに、年金が減額されるのはおかしい。未払いではなく、同じように40年間、働いてきて、所得が低かったから、免除だったから、年金が低いというのは、不公平ではないか。今の国民年金には25年の規定があって、低所得者層にとっては払い損の面もある。

  道中 生活保護では、年金の保険料を払っていない人が13万円もらえる。一方、保険料を掛けて、生活保護を受給する人は、年金が入れば、保護費から6万6000円引かれるとなると、生活保護を受給している人では、年金収入に関係なく、生活レベルは同じだ。保険料を払っていた人からみると、掛けていない人と、収入がなぜ一緒なんだということになる。説明してもなかなか納得してもらえない。それなら、生活保護で年金をもらっている人は、年金加算を付けるとか、差別化することも、負のイメージを和らげるとともに、年金保険料の未納防止のためにも必要なのではないか。貧困に対する認識には、確かにばらつきがある。数量的な解析や、実態をえぐり出す数値を示すことで、偏見を是正できるはずだ。貧困に関して国政レベルで調査を進める必要がある。わが国では、何の根拠もなく、気の毒だから、母子加算を復活させましょうかと言うことになる。貧困認識のぶれを少しでも小さくしないと、有効な政策を打ち出すことは難しい。

単にルサンチマンゼロサム的な社会観では何もうまくいかないのです。一人一人が追いつめられているからこそ全体のデザインを組みなおすということが必要なのではないでしょうか。負け組とか勝ち組という言葉がはやった時期がありました。しかしそういうことではなくて日本社会全体の体力が落ちていること、それはおそらくアメリカもヨーロッパもそういう事態に直面していること、その中で社会の荒波にもまれ貧しくなることもありうるということは普通にあることだと思うのです。
人間は完全ではないからです。
あるときあれは麻生さん?だったか、元首相が「私は病気にならないように頑張っていて保険を払っているのに、病気ばっかりになっている不健康な人間が医療費を食っている」みたいな話をしていました。
社会保険方式というのはいろいろ欠点はありますがまずありうるリスクを想定してみんなで財を拠出して安全を担保する仕組みなのです。しかし原発事故で、原発なんかは過酷事故が起きたら全く保険が払えないようなことになってしまう。しかもそういう備えもあまりなかった。

そのように現代社会は機構が巨大すぎるからこそわかりにくく、木を見て森を見ずになりがちでこういう事故が起きてしまいました。しかしということは事故前からみんな潜在的なリスクにさらされていたということなのです。今回の事故は大変な不幸です。しかしこれを教訓にして日本社会は学ばなければならない。巨大な事故で、ある確率論的な障害が起きる可能性が起きてきた。いま民間の保険会社はどういうリスク計算をしているかわかりません。

しかしこういう時に「かしこい人だけが生き残れる」といったって、汚染食品だって、いろんなものだってどんどん流通しているのです。放射能がゼロという産品は少ないかもしれません。ですから皆でリスクに備える社会体制が必要なのです。


   
  *自助努力の限界点-原発事故を考えながら       

少し話がずれましたがいいたいことは「自助努力」だけではどうにもならない限界が人間には必ずあって、多くの人と危険に備えるという発想も必要だということです。津波が来たというとき、まず「てんでんこ」つまりバラバラにとにかく生存を確保することが大命題になります。けれども避難して復旧して仮設となったり原発事故でも避難の長期化がありますと次どうするかということがあります。
そういう時にお互いを支える公的な仕組みとして何らかの原発事故被災者給付みたいなものをする必要があると思います。

それと似たようにではありませんが、人間は必ず育ち病み老い死ぬものです。そういう一生の過程で生じる様々な出来事も対処が難しいものが多いからこそ私たちは共同社会を創設したのではないでしょうか。ですから、原発事故もそうですし、生活保護でもそうですけども、社会的な困難が個人に降り注いだときに、まず自分の命を考える、けども社会は流通その他の制度でつながれてその利害関係者として多くの人がかかわっているのであれば、「貧しいものは勝手にしろ」ではダメなので、困ったときに助けられる制度をきちんと維持できるようにする必要があります。
無論、生きていくのは難しいことで、そして自分の力でやり遂げられたという効力感がなければ人は生きていけません。だから、そのような自分の力を生かしていくということと、他者とともにリスクを共有しているという制度の感覚がどこかでともになければ厳しいと思います。

そうしないと人間個人が生きる元気もない。そういう危機に社会があるということです。つまり一人一人がたつ土台が揺れているのだからそこをしっかり見つめなおして互いで立っていられるような場所を作るということで、それをやることで経済も再軌道に乗れると思います。しかしはたして現在の税と社会保障の一体改革がそのようになっているか、経済政策がそうなっているかほとほと心配な状況であります。

災害や事故は人を生きるか死ぬか、生き残った者と死に行くものと過酷に分けてしまい、この世界の不条理を顕現させます。病気もそうです。私のように精神病になっても自殺も何とかせずに「運よく」生き延びたものもあれば不幸にして亡くなった方々もいるのです。そうした時にとどめを刺されないように社会の底板に空いている穴を見つめてそこに板を張って沈まないようにしなければなりません。

 *福島の現状から生の根底の崩壊 

作家の玄侑宗久氏が福島の現状を見ながらこうおっしゃっています。
住職、作家・玄侑宗久さんインタビュー全文(上)被災者の自殺…孤立防ぐ対策を

「深刻な心の分裂が起こっています。例えば、飯舘村津波地震でやられたわけじゃない。高い放射線量のために、住民は避難したのです。だから今も『除染後、必ず村に帰る』という思いが強い」

 「しかし、心の中では『戻れないかもしれない』とも感じている。そのため誰かが、『戻れるはずはない』と言うと過剰に反発します。心に封じ込めた不安を口にする人が許せないんですね。だからこそ国は、土壌が汚染されたすべての町の徹底的な除染と共に、戻れなかった時のための代替地を早急に確保しなければいけない。分裂した心には、両方が同時に必要なのです」

このように原発事故は「共に存在する」という土台を破壊する面がある。そこでナショナリズムや「がんばれ」では効果ははっきり言って薄い。必要なのはお金だったりより安全な場所にある家です。玄侑さんは「除染」もいっています。しかし除染すると土砂が大量に出ますし、作業員も内部被ばくします。どうすればいいでしょうか。まず安全確保ですね。危ないところから逃げて新しい場所がいるのです。
しかし「深刻な心の分裂」といっているのは印象的です。これは「心」といっていますが心であり、代替の家や土地といった「もの」でもあるような人が生きる基盤です。ここが割かれることによって絶望的な努力や精神論と、その真逆の絶望が生まれているという印象があり玄侑さんの言葉は今のこの社会に住む人の深層を言い当てていると思います。そうすると「大騒ぎするな」という人が多いのもわかってきます。それほどこの危機は深刻なのです。どんどん引き裂かれが進行します。今までそれをごまかしてきたのですから報いなのかもしれませんがどこかで「連帯」を見出さなければならない。

「ある男性は、福島県内のタバコの作付け中止が発表された翌日に、命を絶ちました。うつ病を患い、長く働けなかったのですが、親戚のタバコの作付けだけは手伝っていた。それが奪われてしまったのです。自分の家のお墓が地震で壊滅的に壊れたことにショックを受け、自殺した若い女性もいます」

 ――周囲から見れば、それほど深刻に思えないことでも、自殺の引き金になるのでしょうか。

 「自殺は竜巻のようなものだと思います。竜巻を人工的に起こす装置を見たことがあるのですが、四方向から風を送って発生させていました。自殺も最低、四つくらいの原因が絡んで起こるのではないでしょうか。亡くなった二人は、持病や震災の影響などで、既に三つの深刻な原因を抱えていたのだと思います。追い込まれている被災者はほかにも多く、仮設住宅での生活が四つ目の原因とならないように、孤立を防ぐ対策など十分な支援が必要です」

この竜巻の喩も素晴らしいと思います。「もう生きていけない」と思わせる場所から生還するために、あるいはそこへと落されないために、あるいは追い落とされた人を救う支援が必要なのです。目的はなくても、今そして次を生きていけるように。つまり一つ一つその人が追い込まれていくリスク要因を取り除いて、その人が落ち着いて考えられるようにしていかなければなりません。このためにも身の安全の確保が大事で、私が低線量被ばく地からの移住を必要だと思っている理由はこういう絶望はその土地にいる限りついてまわるものだからです。これから寒くなり、さらに福島県や周辺の汚染をかかえた自治体の人々は、放射能の危険から身を守ろうとしてその土地を去っていくでしょう。
福島県知事はその土地の経済を守るために脱原発を打ち出す一方http://mainichi.jp/select/wadai/news/20111202k0000e040173000c.htmlということもしているようです。

東日本大震災被災者向けの「民間賃貸住宅借り上げ制度」を利用して多くの県民が他県に自主避難している福島県が、全国の都道府県に対し、今月末で同制度の新規受け入れを打ち切るよう要請していることが分かった。福島県災害対策本部によると、11月下旬に事務レベルで要請、近く文書で正式に連絡する。年度替わりの来春に自主避難を検討している人や支援者からは「門戸を閉ざすのか」と戸惑いの声が上がっている。

 新規打ち切りの理由について、同対策本部県外避難者支援チームは(1)災害救助法に基づく緊急措置で、恒常的な施策でない(2)避難先の自治体から「期限について一定の目安が必要」と指摘があった(3)東京電力福島第1原発の「ステップ2」(冷温停止状態)が、政府の工程表通りに年内達成が見込まれる−−などと説明している。既に同制度で避難している人は引き続き入居できる。

 同制度は、避難先の自治体が一定額までの借り上げ費用を肩代わりし、福島県を通じて国に請求、最終的に国が負担する仕組みだ。例えば山形県への避難者は最長2年間、自己負担なしで入居できる。

 福島県は5月、同県全域を災害救助法の適用範囲と46都道府県に周知。これを機に、国が定めた避難区域外の県民も制度を利用し山形、新潟両県などへの自主避難が急増した。

 福島市の自宅に夫を残して岩手県北上市に5歳の長男と自主避難している主婦、広岡菜摘さん(31)は「来春から夫と家族3人で一緒に暮らせるように福島県外の場所を探している。経済的な負担が既に相当あったので、新規受け入れがなくなると困る」と話す。

こういうことをすると、自治体の枠組みを残そうとしても人はどんどん離れていき、その場所にとどまった人の絶望や「心の分裂」は極大化します。福島県知事にはぜひ玄侑氏やその前に紹介した社会保障の専門家たちの声を聞いていただきたいと思います。そうすると人間が生きなければ国も町もないということがわかるでしょう。これは為政者にも聞かせたいことです。むろん広域の汚染はいますぐに解消しません。今起きたことを責任のある者たちが私たち一般のただの市民や国民の声を聞いて、ひとつひとつ安全を確保し危険を取り除くことです。福島県では人が生きる根拠が奪われていっています。その土地にとどまると命がすり減るような放射線のある場所があります。子供はさらに放射線のダメージを受けやすいので、自主的に避難されている方が多いのです。大変苦しいことですがここから始めないと、つまり放射線やそれによる人間の実存の根底の底抜けによって、人の規定的な生きる根拠は奪われていきつつあるということ、それによって福島県も周辺の自治体も危機にあることを直視し一刻も早く安全を確保するように適宜移住などを促進していくように舵を切らないと、この国は人道的な意味でも国家安全保障的な意味でも厳しい意味で滅亡の危機に追いやられるのではないでしょうか。国家の中枢にいる方々のご英断がないならば私たちが何とかしなければならない。しかしいったいどうしたらいいのでしょうか。

 *打ち消すことのできない事故の爪痕

最後にこのようなデータがあったことを紹介しておきましょう。

asahi.com(朝日新聞社):3月に降ったセシウム、過去最高の50倍超 気象研観測 - 東日本大震災

気象庁気象研究所茨城県つくば市)は1日、福島原発事故で放出され、3月に観測したセシウム137は1平方メートル当たり3万ベクレル弱(暫定値)で、核実験の影響で過去最高を記録した1963年6月の50倍以上だったと発表した。船を使った調査で、北太平洋上に広く降ったこともわかった。

 つくば市に降ったセシウム137は4月には数十分の1に減り、夏には1平方メートル当たり数十ベクレルチェルノブイリ事故後のレベルになったという。環境・応用気象研究部の五十嵐康人室長は「福島原発事故前の水準に下がるまで数十年かかるのでは」と話している。過去最高値は同550ベクレル(移転前の東京都で観測)。

 4〜5月に海水を採った調査では、福島原発から大気中に出た放射性物質北太平洋上の広範囲に降り注いだことがわかった。米西海岸近くでも降っていた。

 大気中から降るものとは別に、福島原発から海に流れ出たセシウム137とセシウム134は、それぞれ少なくとも3500テラベクレルと試算した。

 表層では北太平洋を東へ広がり、その後潜り込んで南西に流れ、中層の流れにのったものの一部は20〜30年後に日本沿岸に戻ると予測している。地球化学研究部の青山道夫主任研究官は「北太平洋全域の継続調査が必要」と話している。

 核実験の影響を監視するため、気象研は1954年から放射能を観測してきたが3月末、今年度予算が突然凍結され、観測中断を迫られた。今回の結果は、それを無視して観測を続けた研究者の努力で得られたものだ。(中山由美

気象研究所は予算が打ち切られたのですが独断で研究者は放射能汚染の実態把握に努めたというのです。いったい何者がこの国民や周辺国の安全を守る作業を中断させたのでしょうか。それだけではありません。

3月に観測したセシウム137は1平方メートル当たり3万ベクレル弱(暫定値)で、核実験の影響で過去最高を記録した1963年6月の50倍以上だったと発表した。

恐ろしい数値です。
暫定値ということですがこれをさらに支援して掘り進め被ばく量を推定することができると思います。そうすると今後起きる危機を想定できるかもしれません。二度目の想定外はありません。原発事故はこんなに危険だったのです。
さらに重要なニュースがありました。

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20111126k0000e040066000c.html

内部被ばく:89年に健康調査打ち切る 放影研

 日米両政府が運営し、原爆被爆者の健康を調査する「放射線影響研究所」(放影研広島市長崎市)が、原爆投下後に高い残留放射線が見つかった長崎市・西山地区の住民からセシウム検出など内部被ばくの影響を確認し、研究者らが調査継続を主張してきたにもかかわらず、1989年で健康調査を打ち切っていたことが26日、関係者への取材で分かった。

 45年から続く貴重な内部被ばくの継続調査だったが、打ち切りによって健康への影響や実態の解明は20年以上、進んでいない状態。東京電力福島第1原発事故後、福島県は全県民健康調査を進めているが、研究者から「有力な参考データが失われた」との批判が上がっている。

 放影研は調査終了の理由について「健康被害が確認されず、当初の研究目的を達成したため」と説明。住民から提供された血液の一部やデータは保存しており、「(国や福島県などから)要請があれば、比較、検討に活用したい」としている。

このデータは日本の医学、疫学や国民全体、あるいは世界的な被ばく者の健康福祉にとって重要なデータですから開示して今後の被ばく者の施策に役立てるべきです。どうしてそういうのか理由は次の記事をご覧ください。

[http://mainichi.jp/area/hiroshima/news/20111202ddlk34040511000c.html:title]

黒い雨の被災者約1000人でつくる同会の牧野一見事務局長(67)にデータの意義などを聞いた。【樋口岳大】

 −−データの存在をどう受け止めるか。

 ◆1950年代という、被爆後間もなく、被災者の記憶がしっかりしていた時期に回答を得ており、正確と考えられる。放影研は速やかに公開してほしい。放影研は黒い雨の遭遇場所の分布図公表を検討する考えを示しているが、急性症状のデータも公表すべきだ。被災者たちは重度の脱毛など放射線被害としか考えられない健康被害を受け、現在も多重がんなどで苦しんでいる。国は放射性降下物など低線量の残留放射線の影響を切り捨ててきたが、東京電力福島第1原発事故を機に、従来の説明で国民を納得させられなくなっている。原発から離れた場所でも放射性物質で汚染され、住民が避難させられているからだ。放影研のデータは、福島の被災者救済にも役立つ。

 −−放影研はデータを「科学的にはあまり価値がないと思った」と説明している。

 ◆そういう結論を先に出さずに「大いに役立てて下さい」と提供するのが、国民に開かれた専門機関の役割では。出し渋ると「隠しているのでは」と疑念が生まれる。現在、国の有識者検討会が黒い雨の援護対象区域の拡大について議論しているが、この1万3000人のデータも議論するべきだ。国、県、広島市放影研となれ合わず、データの提供を毅然と求めてほしい。

 −−これまでデータが活用されるべきだった場面はあったか。

 ◆県と広島市が設置し、91年に「黒い雨降雨地域での放射線の人体影響は認められない」と結論づけた専門家会議だ。座長の重松逸造氏は当時放影研の理事長だった。データを提供して役立てるべきだった。放影研は海外の専門家などの審査を得ないと研究できないと説明するが、放影研に自らのデータを提供するなど協力している市民の意見こそ重視すべきでは。「海外の専門家」と聞くと、原爆の被害を小さく見せようと考える米国に迎合したような研究しかできないのでは、と危惧する。放影研が市民に認められる研究機関であり続けるためには、今回の問題にどう対応するかが大きい。

たくさん引用しましたが、今も否定され続けていて、しかし被ばく者認定訴訟では国が否定しても負け続けている(つまり被ばく者の主張する内部被ばく影響が認められる判決がでている)「内部被ばく」の立証に寄与する可能性があるということです。むろんデータの読み方によっては「統計的に優位な影響ではない」ものもあるかもしれません。しかし一定程度内部被ばくした人々が、その直後から数年間に渡りどういう症状に苦しんだのかを考える手がかりになります。それは今否定され軽んじられ続けている内部被ばく影響を懸念される人間だけでなく、日本全体、世界全体に役立つことでしょう。できるだけ、放射線影響を過小評価しない人々が確立された仕方で、あるいはこれにふさわしいやり方で、読み込む。そして現在いらっしゃる福島の事故直後に呼吸などで内部被ばくしたひとの健康対策、また食事などの今後の影響を考える素材にすることが亡くなった被ばく者の御霊へのせめてもの手向けになると思えてなりません。