細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

報道写真家樋口健二が語る、被ばく労働の実態

樋口氏が40年被ばく労働について取材した経験とそこから見る福島原発事故のお話。(原子力資料情報室)

一時間を少し超える長い内容だが、損はしない内容である。というかまずはこういうことを知っておかないと今日本で被ばくという形で何が起きているかまったくわからないのではないか。あるいは産業の構造のゆがみが何であるか、国の困難はこういう事態に代表される命の軽視にあったのではないか、そういうところからも見ていく必要があるだろう。(樋口さんの口調は熱を帯びていて正直気圧される部分もあるが)


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樋口氏いわく電気を作るだけのためになぜ大量の被ばく労働者が40年にわたって何十万と作り出されてきてしまったのか。(電気の為に人間が「つぶされる」と樋口氏はいっていた)

CNNが今回の事故で東電の技術者が数百人入ったことを美談として取り上げたことで、逆に日本のマスコミもようやく被ばく労働に注目しだした。何とも皮肉なことだ。
(実は本社の技術者は危険すぎていくことが出来そうもなかったのだが、樋口氏いわく東電の「パフォーマンス」としてやっているのではないかと)

これまで労災認定が下りたのは35年でたった10人。しかもそれ以外の多くの被ばく労働者は因果関係を認定されないままだった。
彼らの労働は隠された労働であった。何故ならそんな危険な場所に人間が入っていることがばれたら事業を継続する理解も、人員も得られないからである。簡単に言うと誰も行きたがらないため弱みのある人が動員されてしまっていたのだ。多くは定期検査や除染、修理などに駆り出される。危険な現場である。

なぜ原発で人間が労働しなければならないのか。
原発はお釜(原子炉圧力容器)とそれをとりかこむ格納容器でできていてそこから蒸気配管が出て、タービン建屋のタービンを回していると我々は思い込んでいる。
しかしとんでもない。原子炉建屋の中は入り組んだ「配管の巣」だという。
ある人はロボットでできないかという。しかし入り組んだ配管のあちこちのパイプを除染し修理し点検することは柔軟な体を持った人間しかできない。

しかし彼らはそのことで被ばくしてしまう。
高いレベルの被ばく労働は誰もしたくない。本社はしたくない。メカを売っている大企業もしたくない。というわけで下請け、いわゆる協力会社がそれを請け負うことになる。除染や修理、点検に駆り出される労働者はそれぞれ下請け、孫請け、ひ孫請け、とありその下に「人だし」がいる。人だしは最悪暴力団も担っているものもあり、その下には無数の底辺労働者がいる。
労働者には立地自治体で雇用先がない人から、低学歴の人々、さらに被差別部落の人々、外国人労働者、路上生活者などがいる。つまり国策による原発産業は日本の差別構造がそのまま持ち込まれている。つまり文句の言いにくい人に押し付ける構造はあると。
樋口さんは観光ビザで海外から黒人労働者が連れてこられ、数日日本の原発で働かされたケースを写真に収めたという。

今回の事故で被ばく労働管理のずさんさ、行方不明者の多さ、白血病で亡くなった人やβ線熱傷した人、心筋梗塞で亡くなった人のデータが小出しにしか出されていないことに樋口さんは異議を唱えている。
それでなくても今数千人が250mSvの被ばくを強いられている。いま100mにしようとしている。しかしこれも大変な被ばくで、長年取材してきた樋口さんとしては労働者は皆逃げてほしいくらいだという。なぜなら多くの人が病気になったのを見たからだ。そういう人々が訴訟を起こさないようにお金を積まれたり被ばく線量を改ざんされたり、はては18歳未満の未成年が暴力団によって住民票を偽造してプラントの除染に携わった実態まである。

それらは樋口さんの本に載っているそうだが、僕はこの話を聞いただけで、目の前が真っ暗になった。

原子炉の電源が津波に流されたというけども樋口さんはそんなより地震で配管や地下にある諸機械がまずやられたんだろうという。あれらは冷却や複雑な安全装置を含んでいてあれらが壊れたら終わりである。しかし東電は電源さえ直せば何とかなると思っていたのがおかしいと。僕もあれだけ複雑な内部構造、細い配管類が壊れないわけがないと思っている。
樋口さんの話では、定期検査はまじめにやれば半年1年はかかる。膨大な費用と時間と被ばく労働が必要になる。しかし3か月で済むのは、検査の意図的な手抜きがあり、特に被ばく線量の高い地点は、誰も近寄らず見落とされがち。かつて起きた蒸気配管の破損で5人が犠牲になった事故でも何十年も一度も点検されず6ミリなければならないはずの配管は〇.数ミリまで薄くなって敗れた。

こういうことを現場のしかも下請けの被ばく労働者に押し付けていたところに悲劇があり、しかもこれらを政府や電力会社の安全神話あるいは国際的なco2削減といったきれいごとで隠されてきたという。

衝撃だったのは、チェルノブイリの上空から爆発した原子炉に鉛や様々なものを投下する飛行機の乗組員六〇〇人は事故後今までに全員死亡していたという点。それから炉心の下に穴を掘るためにアタックした炭鉱労働者一〇〇〇人のうち二五〇人が亡くなったということ。

僕ははだしのゲン原発ジプシー、それからJCO臨界の話を聞くたび寒気がしていたものだが、その根底にはこんなに多くの犠牲者がいたこと、これらの犠牲者は原子力廃炉にしても、あるいは除染や焼却にかかわっても生じるが、しかし原子力を一日多く続ける限り増大すること、これらを感じて暗澹としてしまった。。
しかも今もっと多くの周辺住民や汚染された食品を食べる私たちの生活が危機にさらされている。
被ばくの因果関係について色々述べる人がいるのは知っているし、それらが現在公認されたものであることも知っている。(ICRPの新しいバージョンでは現在の日本政府の被ばくを正当化できないようだが)ただ、こういう実態もどういう思想的科学的立場をとるのでさえ、まずは素の目で検証しなければならないのではないかと思われる。

自分たちの被ばくを考え危険を避けるには、事故収束や周辺住民の人々の安全を確保しなければならない。そこの国や会社の動きをしっかり監視しないともうどうにもならない。つまり被ばく労働の在り方のゆがみから考えるとき、私たちの生命の大切さへの眼差しもはっきりしてくるのかもしれない。これは科学的、医学的な課題であると同時に人道的、法的、倫理的、福祉的な課題である。そう思った。以上拙い書き起こしとその感想でいくつか間違いがあるかもしれないが、詳しくは樋口さんの動画をご覧ください。必見です。