細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

被曝についていくつか資料紹介/人々の生活が滅びたら文学も何もない

放射線防護に関する重要な手引きを見つける。

1.ドイツ放射線防護委員会より横浜の保護者の方へ
ドイツ放射線防護協会より横浜の保護者の方へ | 横浜ママパパの放射線だより

2.京都大学放射線生物研究センター長期汚染地域の住民のための放射線防護の実用的手引き(ページ下部にPDF文書)
http://www.rbc.kyoto-u.ac.jp/Information/bougo-tebiki.html

3.8月18日 健康や命より国が優先したもの 小出裕章(そもそも総研)
(動画は早回しなので書き起こしを読むのをおすすめ)
http://blogs.yahoo.co.jp/yasukaomitu/20861796.html
以上お役立てください。

さて。

内部被曝の真実 (幻冬舎新書)

内部被曝の真実 (幻冬舎新書)

この本を読んだ。国会での参考人質疑の採録とそれを補う補説やラジオ出演の書き起こしなどが収められている。

放射能に対して私も無知でしたがすこし勉強しましたがまだまだ人類はこの分野の実践的な知の蓄積の途上なのだと思いました。その前に人類が滅亡しないことを祈るばかりです。
大量の汚染された瓦礫や汚泥の処理にこの国は、被災県は苦しんでおり、環境省主導で、8000bq/kg以下のものは処理して埋めてくれと全国都道府県に指示が出ています。がれき法も通りました。しかし放射能汚染について国や自治体が明確な考えやきちんとした対応を取らないと現在、そして将来のこの社会に申し訳が立ちません。汚染が拡大する懸念を強く持っています。汚染の拡大屁の危惧を契機に、被災地の人とともにこの事故、災害について分断されずにつながって考える気運が生まれることを望んでいます。
なぜなら放射能をまき散らしたのは原発であり、それを推進した国家なのは間違いないからです。私たちが便利な生活を求めるわりにエネルギー政策に目を向けてこなかったのは事実で、その事実へのいわば道義的責任が我々特に大人にないとはいえない。しかし国民はおそらく今回の事故で相当懲りて参っているのに、政府や東電だけが(特に上層の方々が)そうではなく、まき散らしたことの、まき散らしつつあることの責任をそれらの総体が真摯に反省を表明しているようには思えないのです。

また食品もみんなで食べても解決できるわけではありません。みんなの身体の変調が起きてから「あれは食べてはいけなかったんだ」となってしまっては、なんか変です。汚染の現実には目を向けて、できることをやって、被災者の方の安全も僕らの安全も一定確保されるように努めたほうがいいと僕は思います。優等生なんじゃなくて、これしかもうないからだなあと思っているのです。

みんなで苦しみを分かち合い、未来に希望を残すためには苦しむ人に「一人ではない」と伝え、一緒に考えて、その都度のベターな選択をすることであると思います。
この社会の置かれている現実は苦しいです。私は社会保障や経済、それからこれから増えるだろう病気や、津波原発で危機に瀕する人々とコミュニティの安全が確保されなければならないと思います。
この事故から学ばなければ、たぶん私のかかわっている文学も根元から腐ってしまうのです。文学者が社会参加しろという意味ではありません。文学はなんであれ、どんなものであれ言葉の経験に従わねばならないのですから、それは起きたことすべてとかかわっています。
文学者や考える人が専門業者と違う点は、出来事を自分の一身で受けるということです。
始めから小分けするのはちがいます。専門の科学者や技術者ですら、データや環境を冷静に見つめることを通じて世界にかかわっています。児玉教授からはそのことを学びました。
児玉教授は緊急的な除染と長い期間の除染を分けています。つまりどこの地域でも除染したらすぐ還れるわけではなく、バックグラウンドが比較的低い地域でそこで生活するとしたら危険な個所を今除染しているのです。
広大な山林を全部除染できるとは彼は言っていないと思います。

僕らは忘れていますが岩手県福島県は北海道に次いで日本の面積の2位3位の自治体なのです。僕らはとんでもないことになってしまっているのです。死の町といいましたが、いつ帰れるかわからない人を僕らの社会、政治は生み出しています。
三陸海岸はとても長い海岸です。
東北について皆さん私よりよく知っておられると思うので恐縮なんですが、楽観ムードではなく現実モードで行くしかないなと思うからです。

思えば無知ながら歴史から考えても東北というのは古い地域です。
昔、日本の中央政府はその豊かな土地を支配下に置くために軍を派遣しました。その前からずっと住んでいた自治的な部族は駆逐されました。
坂上田村麻呂
奥州藤原氏が独自の権勢を誇ったこともありました。
奥州藤原氏 - Wikipedia
いま平泉として世界遺産に指定されました。

また会津藩戊辰戦争での悲劇的な敗北もあります。
私は東北の歴史を知らず、柳田國男の『遠野物語』などで憧れをつよく持つ限りです。南部製鉄という製鉄技術をもったり、いくつもの豊かな漁場や港をもった東北ですが、同時にそこは厳しい自然の地であり東北は中央の関西や関東の勢力からの侵襲の中でずっと暮らしてきた、と想像されます。それは原発事故で見られたように地方に押し付けられる負担の構造は変わらないままだと思ったりします。だからといって僕らがそれに政治家のように懺悔したり、ただ「死の町」というだけでけん責される風潮は変えねばなりません。東北はずっと人口減少していった社会でした。しかし今大都市も変わりなく高齢者が増え、子どもが減る社会になっています。成熟が実現したということかと思っていたらちがいました。生活の量や消費だけではなく、質をよりあげるための、方策をこの国は取らなかったのでそうなってしまったようなのです。この国は東北と同じように「人間」を遺棄して国を生き残らせようとしているように思います。なにより列島改造を唱え、地方にも富を再分配しようとした田中角栄が、柏崎刈羽原発の誘致を主導したらしいという皮肉からして、この国の、いやこの国自体の「人間の疎隔化」というものの根深さを思います。角栄はある意味善意でもあったはずだから。
したがって、私も福井が事故にあえばどうなるだろうと不安を抱いています。日本、世界はこんなにも安全ではなかったことを思うのです。昔僕は病的な怖がりだと自分を恥じていました。違いました。私が生まれた時からこの世界は巨大な死をあちこちに胚胎していたのでした。
その一つの死が巨大な爆発を起こしました。

このことを原爆が不当な閑却をされたり、あるいは非核をめぐる党派構想に陥ったりそういう悲しい歴史をも私たちは持っています。
私は事故が起きた後原民喜を読み、「チェルノブイリの祈り」を読んで未だその感想がいえないくらいです。文学には総合的横断的な経験の球体があるのです。いや文学がではなく、人間は地上を生きる経験をそのように慈しみ、書き留めてきたのです。そしてそれを未来に投げたのです。

僕らの社会は未来を失っています。しかしロシアのように絶望して、海外に逃げるか国外にいるしかないという選択肢しかないのかわかりません。まだ希望はあると思います。

この国は被災者に十分な予算を割いていないのに増税といいます。福祉を十分にしていないのにお金がないせいにします。負担を先延ばしにしてはならないから増税だといます。確かに日本の財政状態は深刻です。しかし未来の卵を守ろうとして、その卵を放射能や災害の危機にさらし続けてはならないのだと思います。思想や倫理や現実の見通しが変なのです。必要ならば増税でもなんでもすればいいですが筋は通っているのでしょうか。
そういう正義とは別に、あるいは並行してまた色んなことを書いていきたいです。しかし政治の問題を一定整理しないと文学の領野なんて簡単に消し飛んでしまうだろう。小林秀雄や吉本のひそみに倣って私もそういいたいです。
だから私はいつになく政治的です。折を見て自治体や政府に拙い意見をメールしたりしています。人々の生活が滅びたら文学も何もないからです。

乱筆乱文失礼します。