細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

上杉隆, 烏賀陽弘道 『報道災害【原発編】』のざっくりした感想

あの災害と原発事故が起きる前からツイッターやブログをやっていた。311以降ツイッターの中でも情報が錯綜していたが、まだ多様性はあった。
煽るもの、冷静なようで焦っているもの、マイペースな人、慌てながらも検証していこうとする人。

しかしテレビを見たりして驚いたのは「汚染水」が問題になれば「汚染水」、セシウム牛が問題になれば「セシウム」で、それ以外の情報ががさっと抜けている。しかし世論調査などでは、多くの人が原発はもう嫌だといっている人が多い。多くの人の意識とのずれがある。変だな。それで、大手マスコミはいくつか有用な番組を作りながらも大半は、体制の情報を反復して流しているのかなあととみに思うようになった。

つまり多くの人は「何かがおかしい」と思い、この社会の変動に気づきつつあるが、マスメディアがそれを覆うスクリーンのようになってもしまっているのではないかと。
変動というか今までが変だったのかもしれないけど。

そういう予感に一定程度答えているのがこの本だ。
新書で対談形式、緊急出版だろう。読みやすい。

僕はこの本の著者に先入観をもっていて、我が強くて気取っているなあと思っていたのだが、独特のユーモアがあり面白かった。途中少し冗長にも感じたがアメリカのジャーナリズムも衰退しているが素直に情報形態の変化に即応しようとしているなど海外事情もあって勉強になった。白眉は原発事故の情報の中で大事な情報をフリーのジャーナリストがしつこく聞いてやっと政府や東電から出される様子が克明に語られているところだ。記者クラブの閉鎖性への批判も大きい。ただ粘り強く本当のことを知ろうとする。それによって権力による猛威を検証する。そういうところに感銘を受けた。日本はいま閉鎖性の限界で、体制が硬直化している。しかし放射能の災害は世界に及ぶ。そこで閉鎖性によって人々の生命が守られないのは本当にくやしい。しかし勇気ある報道者がたくさんいれば日本は変われるのではないかとかちらっと思ったりもした
ジャーナリズムの原則は「失敗はしてもいい。しかし嘘はついてはいけない」という言葉は印象的だった。もちろん彼らだって声を大にしていろいろいうのだろうけど、そしてそれでたくさん失敗してきたのかもしれないけど、失敗は財産なんだなと思った。
僕らは失敗してはいけないと思うけどそれは修正できる。しかし自分やひとに嘘をついて真実をゆがめると大変なことが起きる。それが今回起きつつある「報道災害」あるいは心の災害なのかもしれない。

またハルバースタムのエピソードが面白かった。ハルバースタムはストーリー性があり、「出来事はギリシャ神話ではない」と客観性を重視する報道関係からは批判された。が、読まれる、面白いのは大事なことだというような反論をしたそうだ。出来事は語りとセットで確かにそういうものしか面白くない。というか出来事について真摯に語るその動き、リズムそのものが語りのだいご味だ。そしてアメリカのジャーナリストは個々人が自分のプリンシパル、大事なことを簡単な10か条にしたりしているというところも非常に興味深かった。

原発事故とこの災害では、この国の情報の在り方が行政の対応のまずさと合体してしまったかもしれない。この本はライトながら、原発事故冷めやらぬ中で語られたビビッドな報告である。