細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

高木仁三郎の本を読んだ。

 最近目や頭脳が疲労していてPCを控えめにしている。ツイッターはあまり動かしていない。本は読めるから積ん読を読んでいく。身体を動かして休養もしっかりとるようにする。今日は役所などに所用。
 高木仁三郎『原発事故はなぜくりかえすのか』読了。著者は理化学系の出自を持つため、放射性物質は小さい単位で莫大なエネルギーをもち、また環境によって扱い方、挙動がちがいわかっていない(つまり思わぬ変化をして漏えいする危険も大きい)ことが多いという。その自覚の上に原子力産業が成り立っているか怪しいという。物理学が花形なのだが、化学的な意想外の挙動に関係者はどこまで自覚的なのかと。(これは今の「どこまで安全か」でもめているところに関連しているような印象を持った)
 彼は若き頃化学者として原子力創生期の企業に就職したことを語っている。放射性物質の挙動や実験炉での汚染実態を研究しようとして疎んじられた過去を述べたりもしている。そういうこともあり仕事をやめる。自身もしかし仕事に就いていたとき充分にその危険性をはっきりと自覚していなかったという自責の念、そして危機意識が彼をしてフリーランス原子力技術批判者にしたのではないかと思う。
 原子力にかかわる産業や行政全体が失敗やそれについての議論を無くしたこと。つまり議論や批判の習慣を構築できなかったこと。自治的民主的な産業機構にできなかったこと。これは創生期からそのきらいがあったと高木氏は述べる。そしてさらには隠蔽が憚り数値改ざんまであらわれる現状に技術者魂の喪失をみる。なぜなら技術者や科学者はデータがいのちでありそこから得られるものをもとにモノづくりするのに、それをゆがめてしまっているから。そう若き頃原子力の技術畑を歩み、そこで感じた疑問や感触を軸に話していく。 
 まさしく現代の科学技術、特に原子力は危険なもので、環境や人の生活への影響は多岐に及ぶのに企業や国家はその公共性を忘れて上から押し付ける形に陥っていると。高木はそれを「説明責任=アカウンタビリティ」を「説明」のみに軸を置き、国民に「わかりやすく」説明すれば何とかなるとしたことにも疑問を感じている。
 人々に必要な情報と考えを真摯に伝え、社会とともに考える、公的な議題とする、そのような「責任」を、従事する組織や人が失っている。それは大変危険で今後が心配だと述べている。
 まさに警鐘を鳴らした生前最後の本。遺著とも呼べる本。半生記の趣もある。もんじゅ、さらに傷ましい死亡事故や所外での被曝をもたらしたJCO臨界事故を直接のきっかけとしてこの本は書かれた。この本が出て11年後この国は巨大地震とともに最悪レベルの原子力事故を迎えることになってしまった。
 著者が亡くなってから出たこの本の仲間からのあとがきには高木仁三郎の病室には平家物語があり、彼は小説を構想していたらしいという記述もある。ある切なさと私たちの社会のこれからも続くだろう長い戦いを思った。高木氏といえば反対派と思う人も多いだろうけども、科学技術と社会の関係について鋭い考察がなされており、半自伝的要素もありこれからの科学、産業と人間の関係を考える上で重要な好著であろう。
 

原発事故はなぜくりかえすのか (岩波新書)

原発事故はなぜくりかえすのか (岩波新書)