細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

もう少し時間があればいいけれども(時間はあまりない、かも)

 時々原発放射性物質について本を読んだりしています。けれどもそれは今始まったことでもないし、否応なく今、そしてこれから自分らに関わることだからです。特別な意識ではありません。
 なんでかっていうと僕らは酸素を吸うことも含めて自然からエネルギーをもらって生きているからです。電気も今のところ僕らの生活に要るものです。ALSの人には人工呼吸器がいります、電動車いすにも電気いります。すべて生活に必要なものです。
 そういう電力をいかに供給するかというのは大変重要です。ですから私のようなものでもそういう電力やエネルギーに関する本を読んでいます。
 僕は呑気に暮らしたいです。でも呑気に暮らすための様々な環境や資源はこの事故が起きる前からずっと脅かされていたと感じています。そして今も脅かされています。放射線の強く含む大地や風の中で人が暮らしています。
 それほど怖くない、あるいは危険であるという議論をしている暇はもうないくらい危機的な事態が、ただ放射性物質に汚染されている地域だけでなく、津波災害の土地にも、あらゆる人々の苦しみの上に降り注いでいるようです。
 もうそういうのは勘弁です。
 苦しいことは苦しいといい、そしてなぜ苦しいかどのようにしたらよいか。現実の評価を行いたいです。現実逃避しまくっているおまえがいうなという話でしょうけど。

 僕は詩を書いたり穏やかな気分やほほえみの中でゆっくり暮らしたいです。詩を書いてもほとんど儲かりません。また詩人同士でももめることはたくさんあります。芸術家は個性が強いからどんな芸術家でもぶつかりあいます。

 ただ芸術だけではないと思いますが、人間は自分が確かに生きているんだと感じたいものです。幽霊のようになって生きるのはその人の力を搾り取る何かが存在するからです。それを様々な機会に少しずつ減らしていきたいです。福祉でエンパワーメントといいますが、僕は少し違います。力を奪うものを少しずつ減らすということです。肩こりの時ストレッチすることもその実践です。しかしそれは今あるものをよくすることです。
 さらにいいものを作るということは出来事を起こすことです。でもそれは必ずしも人目や耳目を集めるとは限りません。
 ことこのようになっても政府や統治機構は、大丈夫だ落ち着けといいますけども、それは統治機構が「出来事」を恐れているからです。
 「出来事」とはそれぞれが自分の力をいかんなく発揮することですし、そうできるための環境を整備することです。統治機構はそうではなく「僕らに任せたら安心だ」といい続けてきました。

 話は変わりますがゴッホは弟に手紙を書いていました。弟しか頼れる人がいなかったからですが孤独の中で驚くべきものに出会い、それを描こうとしていたはずです。問題の多い人物だったとは思いますが、熱意は大変あったと思います。そういう彼が死んだことをアルトーは「社会が殺した」といいました。これは文字通りにとりたい。
 出来事を起こすのに実は特別なことはいらないので、自分の思うことをいい、なすことをなすのでよいのですが、私たちは骨抜きにされ、僕も頭がクルクルでどうしようもないです。最悪死にたくなり、実際死んでしまうことがあります。恐ろしいことですがこの社会で毎日起きていることです。
 けれども、ゴッホのように絵を描くことでも何かをなせるわけですし、のんびり暮らす世界にするために誰かが傷ついているのを憂えることはできるし、そういう力が増えれば、人間そのものの罪責性は逃れられないとしても人殺しに加担する機会は確実に減ると思います。減ったら元気が戻るはずです。荒廃しかけている土地が今すぐには戻らないとしても、その土地で生きていた人々をこれから生かし、また過酷な僕らの社会を少しでもマシなものにしたいです。

 そういう状況の中に政治があり芸術があり、日々の暮らしがあります。それらは等しい筈です。順番を間違えて政治をバカにして政治に支配され、芸術をバカにして最悪の芸術を選び、暮らしを大事にしようとして、逆に殺されそうになり、暮らしをバカにして最悪の芸術や政治を選ばされる羽目に陥ってきた。
 しかし実はそんなことでもなく、ただ生きて暮らすことで芸術に近づき、生活を楽にしようと政治的になることさえあるのではないか。生きていくことはすべてと結びついているのだと思います。

 そういうことを震災があったから気づいたというのではなく、前からモヤモヤしていたものを私は思い出したということです。スタイルは色々でよいと思いますし大げさに「コミットメント」だ「アンガージュマン」だと大声を張り上げなくてもいい気がします。なぜなら事態がその時よりさらに「暗い」からです。

 原子力事故や津波地震災害に心痛めています。それらは今後の生存、労働、QOL、食、住すべてに関わります。どうしたらいいかわかりません。けれどもきちんと学び然るべきときに行うことができるように心身をさらに健やかにしたい。個人的にはそう思っています。
 のんびりした、心穏やかな社会で僕は暮らしたいです。イライラした社会は怖い社会です。誰もが疲れた顔をし続ける社会は僕は精神病だからかもしれませんが辛いです。無論疲れも苛立ちも人間のものです。しかしそれが強いられている時心がけだけではどうにもならないのではないでしょうか。
 今社会で苦しい労働をしている方々も、その労働の苦しさが自分に何をもたらしているか考えてみてください。偉そうに忠告しているのではないです。僕のような病人や、福祉の人や、左翼の人が考えるだけでは力が足りないのです。
 経済や学問やすべての人々が、つまりは等しくあらゆる人々が要請の前に立たされているように私は思うのです。(かつて右翼の人も憂国という限定された表現ではありますがそういう意識を持っていたように思います。でないと北一輝辛亥革命に参加したり社会主義を独自に取り入れたり、三島が東大全共闘と会話することなんてなかったはずです)その要請に答えるだけで、すぐに政府の方針は変わると思いますし、ひどいことをしている人がそのままひどいことをしつづけることはできなくなると僕は思います。楽天的なように見えますか。たぶんそうではないです。

 単純に僕らにはもういくらの時間も残されていないのだと思います。根底を考えるのですから時間はかかるし、付き合わねばならないのですが逆説的に言うと時間がない気もするのです。
脅しではないです。東海村で作業した人々が、中性子線で体を破壊され自殺者が3万人を超えたときに気づくべきでした。地下鉄サリン阪神大震災で気づくべきでした。うしなわれた20年になる前に気づくべきでした。後悔しても遅いですけども。
こういう社会で何をどう、どのようにするか、ということそのものを問い直したい。