細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

民主政体の擁護

 正直しんどいな。たくさん奇怪な出来事が日ごと毎日現れるのは。

 自分は自分の生活を淡々とやってればいいという気もしないでもないけども、だけど多少なりとも巻き込まれていく部分はある。

 心の病気をこじらせた部分があって、こういう自分の心身に影響してくる社会変化というのは正直ピリピリしてしまう。
 
 数学者岡潔と批評家小林秀雄の対談『人間の建設』を読んでいてこれは10数年前にも読んだんですけどとても良い本です。

 で、それはわきに置きます。こう、いろいろな枠組みが変化して、どんどん自分が今までいた場所から別の地点へ轟々と変わっていくんだと思うんです。自分が同じ場所にいるつもりでも、図だけじゃなくて「地」もどんどん動いてますから。
 で、そうした時に、せめて「ああ俺は無様に流されていくんだ」という悔しさというか自覚というか、そういうのは持っていたいのです。

 その上で自分は非常に頭が固くてそれから偏屈でいつもしんどいしんどいといいながら暮らしているけれども、そういう頑なな自分であっても、民主主義というか、人々がいろんな意見を戦わせあって、あるいはぶつかったりやり過ごしたり無視したりしながら生きている、そういう多様な社会に生きているんだという、そこの参加者であるという認識はしかと持っていたいのですね。

 というのはこれだけの事象が起きると、もう海にまでいろいろ放射性物質を流しておりますから、あるいは大気中にいくらなりとも放射性物質は流しております。しますとわが政府はいくら申し開きをしたとしても、あるいは未曾有の地震が起きたんだとしても、厳しい話ですが、自国の土地や人々だけでなく世界の海や空を汚染しているわけです。
 で、だからこそ、開かれた政府であって、自分たちは今こういうふうに考えておるのだということをいわなければならない位置に置かれております。否応なく。これが「民主主義」を改めていう一点です。

 その一点目は十分重大事で、内外を貫通します。もう目を回すような仰天する出来事で、情けなく思うわけですが、それで民主主義が大事だと申しあげておるだけでなくて、第二点ですが、さらに「がんばれニッポン」というような標語ではがんばれないだろうということなのですね。
 むかし阪神大震災でも感じましたけれども、復興住宅での孤独死や孤立が問題になりました。
 非常に個別の人生の一人一人がどうしたらただひとりぼっちだと感じるだけでなく、その一人一人の人生の始点から、視点から、そこから改めてこの社会の構成を立ち上げていけるだろうかと。二点目の問題として「民主主義」をいう理由です。

 放射性物質の広域の汚染から考えまして、あるいはこの災害の、東北北関東をはじめとしてこの列島に与える影響は誠に大きなものがありまして、世界も今のところ日本からの輸入を制限したりしている状況です。
 こういう状況が逆に総体としてこの列島に住まう人、そこへ与えるダメージの大きさは、むろん福島の人と私ではまるでちがいます。

 で、ちがうということを逆に十分に意識して、自分が相手の状況を知り、あるいは逆に自分の状況から、その固有な苦しみ、病気とかそういうことも含みますが、他との違いと共通性を拾いながらその都度思考せざるをえないのではないでしょうか。
 そういう中で、基本的には人と話す、話して共有できない部分も含め、うまく話せない部分も含め、そういう多様な人々のいる社会の中で生活しているということがかなりはっきり自覚されざるをえないのではないか。

 つまり一人一人ちがうんだけれども、この列島が経済圏として社会として受け取るダメージがある。それはそれぞれちがう。むろんちがう。けれどもその違いを押さえたうえで、議論の土台としての公共空間を作れるか。あるいは共通の利害の部分をどう扱いうるか。
 がんばれニッポンではない形でしかし、自分たちの社会が作る問題についてそれぞれの位置で考えるという習慣を再構築できるか。

 これは社会参加を強いる、社会奉仕や労働を強いるという水準とは全然ちがうので。(ただしかしボランティアをなさっている人や災害支援をなさっている方々の志や行いは否定していません。むしろ大切なことだと)もっと過酷な人生の真実として、人と人はちがうんだ、あるいは私とあなたはこのように通い合うこともできるんだということを意識の次元ではなく、存在というかその人らしさたたずまいを含め試されるということであろうと。
 そういうまるでちがう人間とどこか似た部分や違う部分を感じながらなんとか社会を形成しているという冷厳な事実です。これは今肝を冷やすような勢いで感じているような気がするのです。

 それと生き物とか環境ということを考えると、自然は私たちの秩序を全方位から支えていたということもはっきりしたので、何が言いたいかというとこれまで、私たちが見えなくし、見てこなくしてきたもの、その上に平気で様々なものを築いてきた当たり前のものの、恐るべき(しかし自然な)現れ。
 こういうことをいうとおかしい気もするのですが。
 自分たちがこの世界を汚しているんだということもどんどんはっきりしていくのですが、しかしそれをヒューマニズムの上に立って自然を壊してごめんなさいというレベルで何かいえるかというとあんまり言えなくて、というようなこの悔しさ。

 それとはまたちがう水準では、おいしい野菜やお米が食べられるかどうか。そういう仕事をしている人はどうなるだろう。そういうことを含めてある種危機である。

 そういうことがあるというのに汚染の程度や範囲、見通しというものが示されていかない。そういう政府であること、そういう政府を持ってしまっていることの苦しみ、痛み。
 そういうものをしかしはっきりさせるためにも公開性であるとか、ほかの人々や国々とのつながりを本当の意味で考えないと相当に破廉恥で、生き抜くことが難しいことになるという意味で、もうそうなっているという意味での民主政治の再構築。でそこから私たちが持つ政府はこれからもっと自分たちの狭い利害だけでなくもっと様々なもの(国の中に対しても外へも)を視野に入れないと立ち行かない、そういう意味での民主政治は守らないとまずいのではないかという。(ぎりぎりでの擁護)

 そういう意味であらゆる事象は政治的な偏りの中で、気楽な「まとまり」など実現できないからこそ、そのばらばらの意見を突き合わせて新たな知恵を作らなければもう立ち行かない。そういう「突き合わせ」「丁寧なケースの検証」という意味での民主主義が大事ではないかということです。そういうことを今感じています(別に選挙前だからではなくて)