細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

【読書中】カリガリス『妄想はなぜ必要か-ラカン派の精神病臨床』

 暖かくなっている。久しぶりに読書に熱中している。半分くらい(90頁くらいまで)読んだ。この調子で積読を解消したいが…

 

妄想はなぜ必要か―ラカン派の精神病臨床

妄想はなぜ必要か―ラカン派の精神病臨床


 ブラジルのラカン派らしい。用語はラカン派独特なのだが、父の名を起点に心的な世界をきつきつに作り上げている神経症者。逆に発病前には父の名とは異なる心的秩序を作り上げてきた精神病者。その精神病者が、「社会化」という形で「父の名」を参照しなければならない圧力が生じた時自らの心的世界の中に「父」を見つけることができず、自らの心的世界を没落させ緊急に父の命令を呼び出そうとしてそれが「現実界」において「妄想」や「幻覚」の形をとって侵入してくると。

 ここでいう「父」というのはその人の心的な世界におけるメタファーである。メタファーの中でも心的世界の記号秩序のもとである。ただカリガリスはラカンには欠点があるという。ラカンは精神病に固有のことは「父の名を排除している」ということだという。しかしただそういうだけでは、精神病者には「父の名」が「ない」とネガティブに規定したに過ぎず、積極的な規定にはなっていないとカリガリスは批判する。
 心とは記号的なメタファと意味の働きが(カリガリスはそれを星雲と網というが私は図と地で理解)結び合うこと。現代の社会では神経症者の象徴的な秩序の作り方が支配的なので、精神病者は「敗北した」形態をとらざるを得ないといっている。これはドゥルーズガタリの精神病観とちかい。カリガリスも非発病相にある精神病者は神経症者のようなごりごりの秩序化をしないので自由にみえるがいったん発病するとダメージは大きく、治癒の過程でまた異なる心的秩序を身につけるという。
 この辺りドゥルーズガタリに感じていた懸念が少し晴れる。精神病者はどう考えてもある意味不自由な、困難な部分をもっている。で、それがしかし日常の世界や病気でないとされる他者とどう関係するかっていうのも気になるところ。
 緊急的な心的な秩序化が妄想や幻覚だっていうのも中井久夫先生あたりと見解は似ているんじゃないか。この辺もよくわかっていないのに勘で言うわけだが…

 ってそれにしてもラカン派は言葉がややこしい。しかしこの本は臨床に関するインタビュで少し読みやすい。私のまとめは言葉の使い方とかまちがっているっぽいから各人内容は直接カリガリスの書籍で確かめてください。

 さてまだまだこれは議論の序の口の模様。頑張って続き読みます。。