細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

私のプラクティス、世界がどのように病んでいるか。

 あたしはフリーターでもあれば無職でもあれば病人でもあればおっさんでもあれば、誰かにとっての友人でもあれば、ただの通行人でもあればお客さんでもあれば、という形で多くの役割や形を毎日生きている。
 逆に言えばそれ以外ではない私みたいなものがあるのかどうか。しかし最近ぼんやりセネカを読んでいたら俺は「病人だろうがなんだろうが人からどう思われるかとは一向に関わりのない自分」として、しかしそのような無縁の私(生まれてきて死ぬだけの)として複数の役割をその都度背負うしか仕方ないと思うようになった。
 いくら頑張っても頑張ること自体が自分の能力を下げる。パフォーマンスが下がるわけだ。しかしこういう一般に精神障害や能力障害といわれかねない遅さとか自分のまとまりのなさを自分は自分に対して責めないでいよう。しかしそれはそれなりに働ける人への嫉妬がないわけでもない。むしろ大いにある。
 考えすぎな大いなる被害感情である。それが大いに私の足を引っ張り、正確な認識を妨げる。しかし深い猜疑は世界へ果てしなく近づこうとする絶望的な熱意である。
 ただしふつうに考えて、ひとと比べてどうすんだっつうわけである。比べるとしたら自分が動きやすく心地よくなるためにどのような苦労をするかの時に、今はこれくらいできる、昨日はこれだけしかできなかったというような現実的な己の力量の評価をしたいだけだ。このことに大いに勇気を必要とする。
 自分の身体や心は痛んでいる。その傷つきは深く文明の傷つきや荒廃の深度と歩調を合わせるかのようだ。そして世界がどのように病んでいるかを気にかけないことには自分の苦しみを知るきっかけもないし、むしろ世界の病みや苦を知ることが出来たら、己の運命とかしんどさやバカらしさや風景やそういうものの輝かしさに至れるのではないかと思ったりする。
 それらは文学以前の文学であり、世界への働きかけという意味では政治以前のプラクティスである。また生きることは祝祭である。空気を呼吸し、光をしり、暗闇を感じ、隣人の涙や感情の見えなさにたじろぎ、己の相手への暴力と優しさがどう作用しているかうまく捉えきれない盲目的な祝祭である。時にそれらは、喜びとして現れる。政治や芸術は捉えそこなってきた。私たちが生命として関係として、束の間を生きるのを。
 関係の鬱陶しさを感じ、その苦しみの深さには救いがない。だけれども、垣間見える空の輝きのような、人の与えてくれる意外な言葉や表情も私を助ける。

 もっともっとそれらをきっちり感じるべきだ。救いのない生の中で、私たちは自らの生の正しさと罪を正確に秤で計るべきだ。

 私のこの文章を人は「文学的」で「あいまい」と評するかもしれない。しかし全く逆だ。明瞭に流通しやすい言葉では引き取れない何かを私は真のものとして引き取りたいのである。それだけだ。