細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

この社会の構成のされ方・分断のされ方-lessorさんの日記と高森明氏の日記から

 lessorさんのはてなダイアリーを読んでいたら、高森明という人のブログ記事が紹介されていた。
 lessorさんの記事→本当のオルタナティブ - lessorの日記
 言及されている高森明氏の記事→グレーゾーンへ(16) 普通学級の呪縛�@ 森口奈緒美の問題提起 グレーゾーン学とアブノーマライゼーション論/ウェブリブログ

 大変勉強になった。
 しかしうまく展開できるかわからないので大まかに私が受け取ったことを概括するにとどめておく。それくらい大事なこと。


 障害児の教育をめぐっては、特別支援学校に入って、彼らの個別のケア・ニーズを大切にしたほうがいいという意見と、否他の「健常児」と同じように普通学級に入って同じように学ぶ権利を保障されるべきだという意見が対立することが多い。
 しかしその対立の裏にあるものが問題だ。高森氏は、障害か健常かの枠組みに入りにくい「グレーゾーン」の子供たちの存在を論拠として、それを論じる。
 どのように学ぶ権利が各人に保障されるべきか、現在の学級制度は特別なニーズをもったものだけでなく様々な人の個別に「大切にされる」権利を充当し得ない仕組みであるということが問題ではないかということを論じている。そこが本当の問題なのだと。

 以下高森氏のグレーゾーンへ(16) 普通学級の呪縛�@ 森口奈緒美の問題提起 グレーゾーン学とアブノーマライゼーション論/ウェブリブログの記事から引用しながらその議論を見ていきたい。(以下引用部分はすべて高森氏の記事より)

 

つまり、学級制度自体は、決して子どもたちの権利を保障するために作り出された制度ではない。低予算で国民皆教育を実現するための制度であり、その仕組みは家畜を低予算で飼育するテクノロジーとも共通する部分がある。さらに言えば、全ての子どもの教育保障を実現することができるのであれば、必ずしも学級制度にこだわる必要はないと言ってもよい。

子どもの頃普通学級に通い、大人になってから診断されたグレーゾーンの人びとの話を聞いてみると、普通学級での経験は必ずしもよくなかったようである。知的障害や境界知能にある発達障害者たちの経験談では、学校の勉強についていけない,あるいはそれを理由に教員から叱責され、同級生から弱点を突かれるという経験をした当事者が少なからず存在した。また、ADHD高機能自閉症の当事者たちの体験談では教員や同級生からの同調圧力が強く、やはりいじめや叱責の体験を多く積んでいる当事者が多く見られた。もちろん、そのような修羅場をくぐってきたために予想もつかないような才能や発達をした当事者たちもいるが、全体的にはその時期の周囲からの評価を内面化し、自己評価を低下させられた当事者たちが多く見られた。さらに世代が下るごとに、不登校の経験者も多くなっていく。

教員たちも教務だけをやっている訳にはいかないし、学校も教科学習以外の多様なサービスを提供せざるを得ない状況になっているし、生徒たちも生活を丸抱えされる状況が当たり前な状況になっている。さらに、多人数学級の弊害から学級運営上の負担は非常に大きくなっており、生徒に対しては協調性が強く求められ、同調圧力も極めて強い状態になっている。森口が望むような「教科学習保障」に専念できる環境は学級にはなかったのだ。


 目から鱗である。この記事とは少し矛盾するかもしれないが他の人と同じように共同生活を営む権利(共同生活保障)も、個々人のニーズに合った適切な教育を受ける権利(発達保障)も不可分一体のものだったと思い当たったからである。安心しながらも刺激にさらされる、未知に出会うということが大事だなと。人間関係を学ぶのではなくすり減らすということにはなってないか。ただそれを変える実現の方策、思想によって、その形態は変わってくることはありうる。ネットのある時代でもあり、学習の保障と共同生活のあり方が両方同じ場所で必ずしも行われなくてもよいかもしれない。
 現在の学校は多くのものを担わされ「積みすぎた箱舟」になっている。その結果、大幅に協調性だけが強調され、困難の大きい生徒がそのしわ寄せを受ける。
 結果、集団生活になじめず、ひとりひとりの端的な、基本的な「学習の権利」すら奪われていく。障害のある学生はもちろん、あまり障害のないとされる学生もそのしわ寄せを受けて、人間関係に苦労しているのではないか。

 
 障害者ひとりひとりを大切にしよう、いやそうではない障害者と健常者を同じ世界にという葛藤はそれぞれ保護者や当事者、教育関係者にとって切実である。

 とはいえよく考えてみれば障害者であるか、そうでないか否かに関わりなく、それぞれの人がその人そのものとして大切に扱われるということが大事だったのだ。そのことは困難を抱えるものだけが持つ問題ではないが、しわ寄せがより多く「困難を多く持つもの」に表れているというところがあるといえるだろう。そこを高森氏はしっかり見ている。重要だ。

 それぞれの人がその人として尊重されて初めて、人は人と生きていくことができる。その原点。その当り前のことだが見失われている部分を森口奈緒美氏の言葉から高森氏は探っているように思える。(引用のイタリック体部分は森口奈緒美の著書『変光星−自閉の少女に見えていた世界』から高森氏が引用している部分である)
 

「普通学級」か「特殊学級」。
その「中間(まんなか)」がない。
だから、どちらにも居場所がないコウモリのように自分自身を偽って、
「普通(ノーマル)」に振る舞い続けなければならなかった。(中略)
そんな当時のわたしの夢は「学校で勉強ができる世の中」を作ること、もっと理想を言うならば、学歴社会のない、「学校に行かなくても勉強ができる世の中」を作ることだった。

ここで森口は2つの具体的ではないが、2つの教育構想を口にしている。

①学校で勉強ができる社会
②学校に行かなくても勉強ができる社会

 ②はあくまで理想論としているが、事実上の学校あるいは学級制度の廃止論と言っていいだろう。そして、わたしがあくまで注目したいのが②の提案である。

それでも私は、学校に通いたかった。世の中のシステムの中で生きていく以上、たとえ学歴社会が崩壊したとしても、やはり知識が欲しいからだ。なぜ知識が欲しいのか。それは好奇心があるからにほかならない(P289、前掲書)

 普通学級も特別支援学級も、この森口の問題提起に答えることができているだろうか。普通学級も特別支援学級も集団教育であり「積みすぎた箱舟」である以上はこの問いに答えるのは難しい。そこで、やはり森口提案②の問いに答える教育構想を考えてみる必要があるだろう。


 高森氏は「教科学習保障」と「学級制度にたよらない」あり方をまずは軸にしている。ここには様々議論があるだろう。
 ただそこから私が感じたことも下に書いておく。

 現在の社会には健常者と障害者両者の間に分断が起きていることが指摘されることはままある。この分断に不利益を感じているものは障害のある子供の未来を考えている人やその子供がまずそうである。しかしそういう社会の分断された構成そのものが我々全体の想像力を狭くし結果的に多様性の生まれない、元気のない社会を生み出しているとすれば…
 とすれば、この社会でのつながり方、分断のされ方が発達の途上にある学校に通う子供たちすべてに影響を与えてしまっていることは想像に難くない。
 ということはこの社会での個々人の「社会化」のあり方そのものが、ひとりひとりのあり方を大事にしないものになろうし、そういう子供が差別や暴力をする大人になったり、その被害者になって結果的にこの社会が人道的なあり方を損なっていることも大いにあるだろう。
 つまり共存のあり方として、それぞれのニーズにあった学習の保障と同時に、様々な隣人と具体的に如何に共存するかという社会化のあり方も模索する必要もあるかもしれない。
 私は学習保障だけではなく人々の共存のあり方により多く関心を割いた読みをしてしまっているかもしれない。
 森口奈緒美氏自身、そのような共存が苦手な面を持ちながらも「それでも私は、学校に通いたかった。世の中のシステムの中で生きていく以上、たとえ学歴社会が崩壊したとしても、やはり知識が欲しいからだ。なぜ知識が欲しいのか。それは好奇心があるからにほかならない」といっている。
 つまり世間でいわれる「同調」は苦手だが、自分がこの「世の中」を生きることを知っているしそこで如何に生きているかを彼女自身考えているし、しかしそれを保障される場所が少ないといっているように思える(引用からのみ判断するのは危険かもしれないが)
 それを「好奇心」という言葉に託しているように思える。知識を手に入れるだけではない。そのもとにある好奇心が満たされたい。好奇心はその先にある世界に手を伸ばそうとする動き、兆しそのものである。それは恐らく自らの不足を感じるところから生じる「知りたい」というニードである。世界に触れたいという衝動、欲望、必要needである。それを保障するためにどのように最適な制度がありうるか。
 しかしこの社会の構成の仕方、その体制の在り方が問題でありそれが人のあり方を狭めて閉塞を生み出しているのではないか。それを再考するヒントがここにはあるように思える。良記事を紹介されたlessorさん及び、記事の書き手、高森氏にお礼を申し上げたい気持である。ずっとこのような視点を私も待っていたように思うからだ。なぜなら私もよく学校の「人間関係」につまずいてきたからだ。そのことがのちの不適応や苦しみにもつながっているように思えるからだ。