細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

任侠ヘルパーにみるアクチュアリティー

引き続き風邪っぽく夕方まで微熱あり。徐々に咳が無くなり熱も下がったので入浴した。
その後ドラマ任侠ヘルパースペシャルを見ていた。噂には聞いていたが見たのははじめて。介護というより無縁社会といわれてるが、人は基本的に孤独に生きるしその中からつながる必要が出て来る由縁や訳のようなものをよく考えているドラマだった。
シリーズでは草磲剛扮する主人公がやくざからヘルパーになって起きた様々な出来事を描いていたのだろう。
今回彼はその施設からも離れ、どうやらある若年性認知症の女性のケアをしている。現実には異性介護はあまりないと思うのだが、ここは恋愛ものにするために創作したようだ。
また福祉の現場からもやくざからも距離を置いた中での主人公の身の処し方や周囲の出来事がメイン。草磲の迫力や周囲のヘルパーや施設利用者の熱演も光る。

草磲扮する元やくざ者の青年が「あんたは無縁社会で1%でもつながりがいるというがつながりってなんだ」と問いかける場面や「やむにやまれずこの人は孤独になった」と相手にいわれ「孤独に理由などない。自分が選んだんだ」という場面に深いものを感じた。これは単に露悪的に福祉の「偽善」的側面を暴こうとした発言ではないからだ。

これは孤独は自己責任で何でも処理せよという意味ではなく、ひとは必ず「私」としてたった一人の地上的生を生きざるを得ないという意味だと思った。
つまり尊厳のさみしさと誇らしさとそこに現れる老いや病、孤独や失墜。それらの全容が重しとしてこのドラマを支える。
尊厳と汚辱は別のものではない。だから「いかに生きるか」「いかなるつながりを生きるか」が問われるのだ。

そのような圧倒的な重しとしての私を生きる晴朗さと辛さの両面がある。それらを人と味わい合うことがいくばくかの地上的生の素晴らしさと悲惨である。

問題はこの素晴らしさと悲惨の内容であり、このドラマはそこを簡潔ながらもわかりやすく、かといって極度に戯画化せず描く。設定は荒唐無稽に近いのに妙に説得力があるのは、演者とその「台詞」「場面の記述」の力だろう。

愛する者を失い戦おうとする場面、仕返しに破れ傷つきながらも喪を湛えながら一人生きようとする主人公と少年の別れ。
子供と生きるのを避けていた男が娘と生きようと決めたことを主人公に報告する場面。

あらゆる解答はひとそれぞれであるが、その解答に至るヒントは誰かと生きたり見た景色や記憶なのだった。

このドラマでは人情ドラマギリギリになりそうになりながらも、それぞれの人の生の関係性や大切にしたいものの発見や喪失がよく描かれている。このことは今後自分や周囲に現れた「生きられる」社会問題を考える上でも重要だ。
ドラマから教えられることもある気がした。

無縁社会という概念自体を解析し、その含みをうまく描いた良いドラマだと思った。
草磲氏の荒っぽいやくざ口調もかっこよく素晴らしい。
ラストは寅さんみたいである。