細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

きちがい扱いされたくないことと精神障害として自分の苦痛に言葉をあたえることの違いなど

タイトルに書いてある通り、この二つが混同されているというか、自分も他の人も混乱しているとしか思えません。この二つが簡単に分けれないものだとしても、これは非常に問題のあることだと思います。
けれど無理からぬことでもあります。

「きちがい」扱いされることは、「あいつは頭がおかしいから我々とは異質だ」という扱いをされることです。確かに現在の社会制度においても、病者は服薬や社会保障の管理下に置かれます。それは仕方ないとしても自分や人を卑下し差別する。またそれはまた「恩情的な」(パターナリズム福祉の受益者でもあります。大した受益ではないにしてもいくばくかの保障を受けられる可能性がゼロではありません。しかし年金や手帳を受けることも一時よりはカジュアルな行いになりましたがまだまだ偏見が多いと思います。

私はそういう「きちがい」扱いは嫌でありますし、そういう医療や福祉はもううんざりであります。
人を下にみる医療や福祉はいやです。しかし人が相互依存するところには必ず、上下関係が存在するのはどの社会領域でも同じかもしれません。
しかしです。そのような上下関係や気まずさを前提とした人々の苦痛の訴え方しかないこの社会はおかしいとはっきりと思います。私たちの文化や社会が豊かであれば、苦しみは減らないにしてもその方図を変えるはずです。

もちろん苦痛や病気は一義的には誇らしいものではありません。むしろみっともないと自認されるからむずかしく、そこにハラスメントが生じる可能性も出てきます。

しかし、自分の困難や難しさに苦渋の中で、制度的対外的、あるいは自己認識として自分は「びょうき」であることは何も卑下も誇りもせず、ただそうであるから相なのだということだと思う。そのような条件の中で自分の生き方を探るということは、ありうることであるし、まともな事ではないかと思います。

もちろん自分も苦しみを全部精神の病気のせいにして逃避しているのではないかと思った時期もありました。それの疑問には正当な部分もあると思います。

しかし現在の社会でお金も相談できる相手も必要です。またそれを人間的魅力のすべてで手に入れられるとも思いません。
そういうところに「パブリック」な福祉の要請される部分が実際あるのだろうということ。これは現在の医療福祉を全肯定していうのではなく実際そうであろうという現状認識です。身寄りも身元保証も対人スキルも少ないものが、あるいは家族とうまくいっていないものが公的な保障を必要とすること自体に否定されるべきいわれはおそらくないはずです。

気ちがいと申しますか心の病気は身体と社会環境の両者のファクターから起きますでしょう。これは他の病気と実はそんなに変わらないのではないか。そういうふうに思うようになってきました。

ですから他科とすべて同じではないですが苦痛のある場所に働きかける人間のやり方として医療はそのひとつとしてあるだろうと。

もちろん医療も万能ではなく非道な医療もあります。またそれはその本質からして心身に働きかける術しか持たないという限界を持ちます。
医学もまた分化したただの科学であろうに、多くのことを担っている。

もっと身体と社会の重なる場面、あるいは心身相関の領域に目を向ける人が多く出るべきです。

精神病への内なる差別といいますか、もちろん自分が過剰にいびつな存在であることを自ら認めるのは耐えがたいことでもありましょう。しかしそうではないのです。もし個人に肉体的な理由や環境的に苦痛が一定限度を超えて現れるならば多くの人間がものの感じ方に異常があらわれるし、そのことを「きちがい」とも「精神障害」ともよべるし、そこへの手当はふつうになされるべきだろうと思います。

怪我や苦しみがあるのに「痛くないようにふるまい」続けるのにも限界があります。べつに医療を受けない自由もあります。医療にすべてを支配されず、都合の良いやり方で処理されるのではなく、自分の尊厳を保つやり方で人は医療を使うことはできないか。

また僕にとってこころが病むということは、実際昔から色んな苦しみを経てそうなったのであろう。だから、「病む」という言葉が不当には思えるものの、生命にはわかっていないことが多いので「病む」としか今は呼べないのだろうと思っています。

しかしその上でもし苦しむ人が差別的な対処や処遇にあるのならば、それははっきりと怒っていいし、その怒り自体を適切に分節してよい。そしてその苦しむ人の安寧につながるのであれば他者がその人に差し伸べる行為自体は甘えや依存ではないと思います。こういう常識的な理解が精神疾患を巡る言説界隈になく、世の中にも少なく、また差別的社会慣行も横行しているために、精神疾患を巡る言説界隈はそれ相応のゆがみをもっているのではないかと思います。

基本は「求めよさらばすくわれん」です。自分にとって最適な方法を組み合わせ己を救出しまた多くの人々の苦しみがより公言され社会を変える力になればいいと私は思っています。以上です。

もちろん医療や福祉は人間社会のごく一部の領域です。しかしそれは人間の心身に直に働きかけるものでもあります。だからといって投薬や治療が言下にすべて否定されるだけでいいとも思いません。それをどういうふうに使うか人々の安寧につながるか、つながるとしてもどういう思想や手続きがあるかしっかり考えましょう。それが今言えることです。