細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

続・限られた力で何ができるか−ICFの紹介というか自分の勉強メモ

承前
限られた力で何ができるか。 - 細々と彫りつけるの続きです。


ちなみに今桑田真澄投手の本を読んでますがトレーニングを変えるだけでなく自分のいろんなやり方を工夫したり大変な作業です。彼はスキャンダルでマスコミに叩かれたとき「死」まで考えたことがあるそうです。でもなんとか続けることが出来ました。怪我などなんども転機を経験しながらですね。
その都度修正したり混乱したりしながら年を重ね、キャリアを更新していったようなのです。


変節とか転向というのではなく、自分をいったん見失う、迷うそのときまさに自分の現在の「限られた力」で何が出来るかと問う。例えばいったん別のことをしてみようとかそうして離れながらも問いを別の形で保持する感じになるかなあと思うのです。

そうして変化していく。

この辺りでlotus3000さんへの解答はひとまず一区切りつけます。
lotus3000さん、ご質問にうまく返事できているかはわかりませんが、まずこんな感じです。

で下は自分のことやICFのことを書きます。
lotus3000さんもよろしければもう少し読んでみてください。
というのは自分が変化する、ある生の形式から変化するというのは、いくつかの節をもちながら僕の中で、「障害」や「生きにくさ」の主題系と絡んでいるからです。

                  *

自分は介護をやめて今は病人暮らしですが、病人暮らしだってけして素敵なことばかりではない。
だけどしんどいのは事実だとしても、そこに居直ったり特別扱いされてるだけでは収まりがつかないし、自分も周りも居心地が悪い。今はそこで自分の身体があまり丈夫でないとしても自分の出来ることは何か。
あるいはできないことを踏まえた上で、しかしどういう生き方がありうるか。考えています。
私は病身を抱えて生きるために様々な社会保障を求めました。ただその傍らでいつも社会保障(これも充分なものとはいえるかどうか疑問ですが)をとって終わりではなく寧ろ、そこから自分を再構築する必要がでてきたとずっと感じてきたのです。
つまり自分が周囲から「適切に扱われ」自分も適切に「関わる」とは一体どんなことかなといつもそこがぎくしゃくしているので、そしてそれは己のみならず多くの人も気になる問いだと思うのです。

支援、それはそういう過程のなかで、助けを借りて、自分だけでは難しいことに取り組み、見えない部分を共に見、自分のこうありたいと望む形を見出す事だろうと思います。また望む形を作り出すこと、そのために必要な制度や人、共同性、社会資源すべてを使うものであると思います。
現行の支援はあらかじめ制度的に枠づけられた範囲やカテゴリーを超えることが難しいのですが、本来は苦しみ悩む者に伴走しながら、あるいは己も時には支援を受けながら取り組むものだと思います。(人間には生老病死があり、いつも健康な状態でいられるわけでもないからです)


ただ精神疾患というものは、「生き難さ」に対して現在の世の中が暫定的に与えている名前の一種であり、それぞれが生きられている困難や行き詰まりをどう表現するか、うまい表現がみつかっていない。かつての実存主義はまた非常に精神論的でもあった
精神論だけでは生きていけませんから、社会で生存の困難を感じたものの中である人は、このような名前を身に引き受け、取るものもとりあえず障害福祉に、漂着するわけです。

それがベストだとは多くの人は思っていないのではないでしょうか。障害福祉の世界を覆う重苦しさはここにあります。「病人」や「障害者」扱いされなければ支援を受けられないという転倒した状況です。
(もちろん様々な疾病や障害は存在するのでそれをきちんと見つめることは必要なのです)

しかし生き難さを適切に同定し、そのための支援や社会参加や共同性の構築がなければ病気が治っても病院に逆戻りしたり、病気でないとされる人々はどれだけ生き難さを訴えても門前払いをされます。

ですから、現にICD−10(国際疾病分類)を補うものとして、疾病や障害のみならず生活や社会への「参加と活動」の困難や阻害要因、あるいは本人の得意なものなどを総合的に評価するICF*1国際生活機能分類)が存在します。

つまり、ICFの大きなねらいは、「障害」という言葉にこびりついた様々なレッテルや偏見、しがらみなどをふりはらい、全く新しい観点から、「障害」をありのままに語れるようにすることにあります。ICFでは、いわゆる「障害者」だけでなく、高齢者、妊婦、病気の人、虚弱の人などの生活上の様々な問題を語れます。また、トム・クルーズもそうだという「失読症」のこと、大学教授や研究者に少なくないという(^_^;)「アスペルガー障害」や「注意欠陥多動性障害」のことなども語れるのです。これまでは、誰が障害者か、という障害者認定の問題と、ありのままの事実の問題が混同されたり、医学関係者と人権運動家の観点の違い、あるいは、国や地域の規範の違いにより、「障害」をめぐっては、バベルの塔のような事態が起こっていました。ICFでは、本来は、誰もが関係する問題をちゃんと語れるようにすることが大きなねらいとしています。→こちらより引用ŽÐ‰ïŽQ‰Á‚𑣐i‚·‚éƒc[ƒ‹‚Æ‚µ‚Ä‚ÌICF

しかしあまり世に広く知られておらない現状があるだろうと思います。またICF自体従来の障害観のいくつかを革新したもののいくつかの問題点も同時にあるという指摘する方もいます。だから万能のものはないのですがICFのことを頭の片隅にでも置いておくと、障害という問題を考えるのに補助線になるのではないでしょうか。
ソーシャルワークでは「医学モデル」に対して「生活モデル」といわれます。しかし生活モデルは「医学モデル」の反省から出てきたもので、生活が「大事」といって医療や制度の存在を忘れたり、過小評価することになってはいけないように。そのようにいくつもの補助線を使ってあるいは思考のツールを応用して、思想的な難局を打開する必要があるのではないでしょうか。
僕もいくつかの部分を読んだだけなのですが先ほどの引用を含むこちらのページが参考になるのではないかと感じました。

WHO‚ÌICF‚ɂ‚¢‚Ä‚ÌŠo‘

世界的にも障害観、生き難さへのアプローチは様々な差別への対抗やポストモダン的な動きも含め、非常に過渡的な段階にあるでしょう。
が、もっと生活や参加の困難を単に目に見えない「内面的なもの」として斥けるのではなく、よりよく生きる、あるいは基本的な「生きる」の保障をより丁寧に考えるべきでありましょう。「生きる」に含まれる領域を社会と個人、そしてその両者の複雑な関わりも(この「関わり」の部分が経験や現場の領域に押しとどめられ、理念の言葉に反映されていないのも問題です)含めて再発見していかなければ我々の生存様式のいくつかは行き詰っているように思われます。
そこを考える取り組みが認められてよいように思います。
ポストオウム真理教の日本社会に問われている主題でもあります。

それは人間という「生命」とそれが組織する社会をよりよくしていくために必要なことのように思います。

「病気である/ない」ということが大きく本人の尊厳を奪ったり、あるいは病気ではないとされる人が人に手助けを得ることを恥ずかしく思う風潮は減ってほしいからです。

社会のもたらす圧力と個人の苦しみのどこが深く関わり、あるいはどこが関わらないか、どこがともに解決していく、あるいは周囲と解決する部分であり、どこが自分の力で取り組むべき問題なのか。

社会というものは個々人の力を超えた性質をもちますから「不条理」的な面を個々の人間にもたらすものです。ですけども、その中でも変え得る、より良くしうる部分はあるのだなとは思っていたいのです。もちろん私にも嘆きはありますし様々に躓いたこともあります。だけど、嘆き節ばかりでもそれは退屈ではあるので、どこかで正は正として、不正は不正としてその都度見定めていきたいものです。


病人暮らしにもいろいろ学びはありますが、それはちがうステップに行くためでもあると思うので。
自分が困難と対話して、己の力を高めることはあると思いますから。
少しでもよりよい生を作り出しそれを生きることでありそれには失敗や試行錯誤が普通なのではないでしょうか。

あんまりかっこよく言いきれはしないのですが。。
ちょっとポジティブ思考すぎますか。
でもあまりに悲観的な風潮が一部にありますのでそれにへそ曲がり的に抗したいところでもあるのです。。
難しいですし今はこんなところでしょうか。
うまくいえたかどうか全然自信がもてないですが。。