細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

何を恐れているのかーカフカの思い出

 

残ったのは説明のつかぬ岩山である。−伝説は説明のつかぬものを説明しようと試みる。それは真実の根底があって出てきたのだから、ふたたび説明のつかぬものとなって終了せざるをえないのである。
カフカ『プロメトイス』)*1


 大学時代、カフカを読んだ時、大変感銘を受けて長谷川四郎訳の『カフカ傑作短編集』を繰り返し読んだ。『夢・アフォリズム・詩』なども読んだが長編はぐるぐる目が回りそうだったが審判はけっこうがんばった記憶がある。
 そういうカフカについての論文でいいなと思ったのは、有名なものばかりでドゥルーズガタリの『カフカ‐マイナー文学のために』やベンヤミンカフカについてのエッセーやバタイユの『文学と悪』のなかのカフカ論が印象に残っている。

 『海辺のカフカ』という題名を冠した村上春樹氏の本には抵抗があった。読んだし面白かったがやはりちがう。おそらく子供とか欲望というものへの捉え方、あるいはカフカの置かれた位置と春樹氏の置かれた位置の大きなちがいである。僕は春樹氏はよく読んだ作家であるが、カフカと題されるのはいくばくか抵抗があった。
 カフカはオイディプスものよりもひろい射程を持ち、そして如何なる超能力よりも夢幻様であるからだ。
 そう思いだしたりしたのは今朝この論文を読んだからだった。→古永真一「バタイユからカフカへ」http://www.waseda.jp/bun-france/pdfs/vol20/09FURUNAGA.pdf

 バタイユは「世の中を変える」という目的論的な見方を否定して、ただ突き動かされるように自己の可能性を極大化し最後には死に至るような至高性が現代の革命や社会主義には見失われている。それを批判して真に人間の存在を開化せしめる方図を探る。古い儀式にもみられる至高性、それよりバージョンアップしたもの。そのような至高性へのとばぐちがカフカに開けているというのだ。

 

 私がこの動物を膝に抱き、近所合壁の子供たちが私をとりまいて立つのである。
 そこで世にも奇妙な質問が発せられる、なんぴとも返答できないような質問だ
−どうして立った一匹だけこんな動物がいるのか、どうして私だけがこれを持っているのか、以前にもこういう動物がいたのかどうか、これがしんだあとはどうなるか、これは一人で淋しくないか、どうして子供がいないのか、何という名前か、等々である。
カフカ『変種』)


 よくカフカは「陰鬱な作家」と称されるがそうではないというふうにバタイユが指摘していることが私には体に深く染み透るようであった。
 カフカが案出する奇妙な生き物や機械や現象は、たわむれの落書きのようである。だがその戯れに賭けられている本気さや力は大変強くしなやかなものである。バタイユは子供と呼んでいるがそう呼んでもいいし、何の役にも立たないけどそれに夢中になりそれが世界を実際に自分の内側から帰るドキドキだといってよい。
 ドキドキすることは戦慄であり恐怖でありなんらかの律動である。それは生命の回復である。たんなるオルギア(狂騒)より上質なものを我々の身体や生命に見るべきだ。しかし…

 

ぼくは硬直し冷たかった。僕は一個の橋だった。ぼくは深淵の上にかかっていた。(カフカ『橋』)


 そのドキドキは禁圧されていたためカフカは大変苦しんだ。あるいはそれを心内に抱え込んだために自己の不安定性に苦しめられることになった。
 しかしよく考えてみれば、そういうふうに内面に深く転化されてしまった有為転変。それは世界そのものであり、その世界が個人の内奥に隠されたのだった。しかし個々の生命もそうだが、この世界は生まれてきた人間にとってうまくいったりいかなかったりする、転変をはらんだものなのだった。個の生命と世界への通路が見失われている。
 だから世の中を変えるというのは、世界の変化の様相を見てとり、それに関わり、そこになにか面白さを見出すことだ。関わることが前提というより関わりそのものをしっかり認識し、考え確かめることが生きることだ。世界が尽きせぬ変化のもとであり、自己も変化しながら自己であろうとする生命なのだから、そこをみつめることに鍵がある。希望といえばそういうものだ。

 そう思うんだけどどうもあんまし伝わらないことが多い。まあ私もあんまり元気を人に伝えられないから仕方ないんだけど。だけどこの際健康ってなにかも考えてみるといいかもよ。それは人間の可能性を引き出すための前提。肉体の健康は部分に過ぎない。しかしそれなりに大事である。もちろん病人も排除されていない。

 私たちは何を恐れているのか。

 否定する力、この、常に変化し、新しくなり、死にながら生きかえってくる人間の闘争的有機体を、われわれはつねに所有しているが、しかし、その勇気を持たないのである、生は否定であり、したがって否定は肯定であるというのに。

カフカ『彼』)