細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

対話

小泉義之倫理学』(人文書院)とブーバーとロジャース『対話−解説つき新版』 (春秋社)を読了。前者は小泉義之による倫理学紹介である。

倫理学 (ブックガイドシリーズ基本の30冊)

倫理学 (ブックガイドシリーズ基本の30冊)

教科書の体裁であるが一人の思想家の一冊を取り出してきちんと紹介、批評している。独自なのはギリシャではなくローマから始められていること。ストア派についてなど倫理学に疎い私でも感動する場面があった。死や苦しみをどう感じながら生きるかである。小泉氏は起伏の激しい書き手でラディカルな書き手でもある。しかしミルや意外なとこでは和辻などリベラルから保守よりまでその可能性と限界をテキストをなるたけよく引用し紹介していることである。大変勉強になった。シェーラーなど永井均が一言で切り捨てた(しかもほとんど今日顧みられていない)思想家をうまく拾っているし、最後はジジェクで締めるところも小泉氏らしい感じがする。波があるが総じて慌て過ぎず大切なことを拾う姿勢が目立つ。本当に勉強になります。
もっと倫理について勉強したいな、自分の関心はひとつはそういうとこにあるのかなと思いました。倫理は超越性や世界のあり方の記述、具体的な他者のことすべてを含んでいる系であり、当為命題(〜すべき)に帰着しがちだとしても本当はもっと豊かな分野なのだと思う。
そういう意味でライプニッツ(あるいは無学ながらカント)が宇宙を語るのも、人生を語るのもレヴィナスや和辻が家について語るのも、あるいは別の生命について語るのも倫理です。人間は世界と対話しているのだから。かな?とか。


ブーバー ロジャーズ 対話―解説つき新版

ブーバー ロジャーズ 対話―解説つき新版

  • 作者: ロブアンダーソン,ケネス・N.シスナ,Rob Anderson,Kenneth N. Cissna,山田邦男,今井伸和,永島聡
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2007/03
  • メディア: 単行本
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もうひとつの本は今日図書館で借り一日で読んだ。電車で熱中しすぎて切符を落とし女性に教えてもらったほど。ブーバーは『我と汝・対話』で有名なユダヤ人哲学者でレヴィナスなどにも影響を与えている。一方ロジャースはカウンセリング界の大御所。傾聴を通して相手が己の存在を受容することを目指す。つまり医療者ではなくクライアントが中心に立つセラピーを目指した人である。二人はアメリカで1957年に対談を行った。有名な対談で稲沢公一という社会福祉学者がこの対談を解釈してる論文を読んでよみたいと思っていた。

読んでわかったのは、ロジャースが単に(やさしく、パターナリスティックにあるいは相手を飲み込む形で)「相手を全肯定する」という生易しい論理を述べているのではないということである。全人格的な交流が起きて、相手が私のことを私が相手のことを感じあえる瞬間こそがたまさかセラピーをもたらすものだということなのだ。これは世間に流布するロジャースについての印象とまるでちがう。ブーバーは最初は、そういう「全肯定」をロジャースがいっているんだと予断して、年少の心理臨床家に「それは対話まで至っていない。対等な対話ではない。もちろん互いの心が通い合う瞬間があることは認める。しかしあくまで心理療法家としてあなたは患者に向き合うという限定的な「状況」の限界は超えられないのではないか」と問う。
ロジャースは己の仕事が「全能である」と反論するのではなかった。むしろロジャースは最低限の論点を押さえる。それはいかなる限界があろうともそういう内的交流は起こりうるということである。(つまり互いに孤立した者同士がいかんともしがたく遭遇するように。対話と併行して起きるクライエントの内的なプロセスでそれは起きる。それは心理療法家が専門家然としているのではなく、必死に相手の言葉を受け止め、それに素直に対応することによってそうなると。これをもってブーバーの他者の深淵をバックにした否定的な論調を裏返そうとしている。対談が白熱するうち、ブーバーの精神医学知識は古典的で、ブーバー自体がある種の権威的な態度を取りながらも、すこしずつその氷が解けてきてブーバーが「本当に絶望しこの世界の土台を失ったものがどう生きていけばいいのか。そういう人にどう語りかければよいのか」という課題をもっていることにロジャースは気づく。そこでロジャースとブーバーは、その互いの限界を抱えながらもどこかで近接した課題をもっていることに気付く。
もちろんこの対話の解釈は私的なもので、実はこの対談はお互いのタイトなスケジュールや、司会者の不首尾などいくつもの制約をもっている。しかし丁寧な紹介を読んで心を打たれた。どうもこの対話のエピソードは、うまく紹介されてこなかったようで僕もブーバーが頭の固い人だとかそういう予断をもっていた。しかしブーバーがこの対談の直後「我と汝」のいくつか版を重ねたあとがきで自身の心理療法への見解を一定程度修正している記述があるということもこの本で知った。

つまりどちらも真剣に己の見解をいくつもの限界のなかで相手につたえようとしていたのだ。


というのは、この新版はロブ・アンダーソンとケネス・シスナがテープを分析し適切に訳し直し膨大な会話分析的注釈がつく。なぜなら古い版にはたくさんの起こし間違いや後からの改訂がつけられていた。彼らは『対話』をテーマとしているに関わらず、皮肉にも長らく対話がちゃんと再現されず流布したことに憤っている。細かい相槌や沈黙の間合い、息遣いまで蘇りブーバー、ロジャース互いの対話による衝突と交流がよくわかる。良い仕事。興奮した。私が長らくカウンセリングを受け様々な疑問や願いを持ったがそのことを考える手がかりになるかもしれない。実はもうカウンセリングは長い中断をしているのだった。なにか違うなと思っているのである。しかしすこし考え直せることもあるかもしれない。もうたとえ仮にカウンセリングを続けないとしても、ここには専門職とは何か、他者との交流は何かという支援職でバーンアウトして辞めた自分に切実な問題を考える端緒があると思った。福祉というものに多く絶望しているとしてもだ。
この新版が支援や医療やセラピーの世界でどんなふうによまれてるんだろうか。