細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

小沢一郎のニコニコ動画をみて感じたこと

小沢一郎ネット会見~みなさんの質問にすべて答えます! - 2010/11/03 16:00開始 - ニコニコ生放送


影が長くなり、秋から冬へむかうのだろう。今日は小沢一郎ニコニコ動画の記者会見をみていた。個々の政策にはいろいろ思うとこがあるのだが、こういう人が「覚悟をもってことにあたれ」というならそれなりに説得力はある。
こういう人物で、政治の様々なグレーゾーンを知悉しているため、政敵には手ごわく見えるだろう。実際力や事実も様々握っているはず。でもこういう人物に率直にぶつかって問いただせる政治家がいなくなったから、それが問題なんじゃないだろうか。
怖くて言えないのは彼の力を恐れるからだろう。
しかし彼が間違っているならばそれをきちんとした筋で問う。それが大事なのではないだろうか。そう考えると現民主党幹事長や総裁は非常に遠回りなことしかしておらず、もちろん菅直人はしばらく静かにせよとはいったが、きちんとした処遇をしていない。(降ろすにしても上げるにしてもである)
そして小沢自身も司法の場でのこともありずい分立場が危機的な上に、不甲斐ない総裁や幹事長に対して大いにふてくされているというふうだ。
(このニコニコのようにどこでも彼は主張をすればよいと思うがいろんな事情でそうならないのであろう。これは小沢自身も自らのメッセージの伝え方に慎重になりあえてこの場所ならば言える形で伝えていると思う。この場所の方が好印象を与えられる。そういう読みももちろんあるだろう)

ただ小沢自身の考えや釈明を聞き出すための気概と言葉があれば、小沢のためでもあり他の政治家のためであり、それはこの国の将来にもいいだろう。

小沢を支持するとかではない。こういう人にきちんと(力を行使しうる)他の人がぶつかれば、リークや策略ではなく議論で真直ぐにぶつかれば、小沢もなにかを腹の底からいわざるをえなくなる。そこまでいい意味でがっぷり寄っていく必要すらある。(かもしれないが小沢の主張がこの国の実情にあっていないならば小沢の主張は棄却される)そして小沢もその力を発揮するか、あるいは自分が必要な人材かそうでないか(つまり政界から去る)判断できるのではないか。
おそらくは小沢自身のタテ関係重視の気質や長年の権力闘争でできた溝と相まって、彼と周囲の人間がうまく疎通できず、苛立っている様子がうかがえる。しかしそれを隠さないところは非常に面白い。

政治家は秘密をたくさん持つだろうが率直で真摯なほうがよい。もちろんクレバーなタイプやポーカーフェイスもいるだろう。ただ率直さは必要だ。この放送は、いわば小沢にとっては国会や政治活動とは異なった番外編だからそうなのかもしれない。
しかし誇張を抜き去っていえば、小沢の主張は自分の思い、考えはちゃんというということではなかろうか。それが今できる立場にない歯がゆさをあるいはずっとできなかった歯がゆさを彼はこの動画で伝えているように思われる。

現在の国難状況を考えれば歯に衣を着せない議論しかその打開策はないように思えるお花畑のように聞こえるかもしれない。しかしこれまでのたこつぼ化した同調型相互監視型の社会の慣行から日本は抜け出せないでいる。つまり他の人の顔色や内的な規則に気を取られているうちに己や他者を見失うのである。いじめなどもそういう同調性を利用した暴力である。しかし例えば内藤朝雄が述べるようにそれは限界にきている。それは見事にできた仕組み過ぎて個々人は力を奪われているのである。様々な場所でいろんな意見が勝手に自生的に出てくるからそれに任せよという議論もある。しかしその速度よりも個々人の隷属化・無力化が進んでいるかもしれない。*1


しかし私はいろいろくよくよ悲観するのだが、どうせ一回きりの人生なんだよなと思う。だからあまり悔いのないようにしたい。
しかしここには但し書きがつく。
自分でリスクをすべてとるのは一個体には不可能であるから、その個体を守る仕組みも小沢のいう「自立」と同時に必要であろうと思う。
小沢は政治家であるから本人に覚悟もあり政治的生命を破壊されないよう身を守っている最中のようだ。

ただ、もっと平たい場で、つまり日常場面で個々人が発言するためには、ある程度差別的な慣行を是正しないと今の半分ブラック化した日本社会では、リスクが大きいのかもしれない。(あるいはシチズンシップ教育というのを聞いたのだがそういうことも必要かもしれない)
だから自立とその自立を支える仕組みは同時になければならない。それを政府のセクションがやるか自治体がやるか民間がやるか意見は様々だろうが、私はある程度オフィシャルな異議申し立てや権利保護の制度が整備される必要があると思う。(人権擁護法のことをいっているのではない。その法案については不勉強だが、もっとプラクティカルに立場の弱い人の権利を確保できるような仕組みであり、わかりやすい法体系であろう。なにしろこの国では法律自体がバリアフリーではない。法律自体がバリアフルな言葉で書かれている。もちろん様々な事情でそうならざるをえないのだが、法律を読むのが難しい人のことはほとんど考えられていない。)そうでないと貧しい若者や認知症になった高齢者、身寄りのない人はブラックな企業や組織の食い物にされてしまう。そしてそれはこの国の活力を奪うと私は考えている。

別の角度からいえば自立はそれ単体では自立に向かって離陸できないという言い方もできる。自立がそれ自体として現れるためには、その培地がいるということだ。己の中に変化をうけいれる「ため」のようなものをつくることができる経験をもつことによって、はじめて権利が力を持つ。*2
少しずれてしまったが、おもしろい視聴経験だった。

*1:戦時中のリベラリストやアメリカに亡命した知識人はそのことを悔い、自由の大事さを説いたが、それは後の祭りであったようにも感じられる。だから今起こっている事態はアドルノやフロム、ライヒハイエクオルテガらが批判した傾向の二度目の到来とはいえるかもしれない。しかしそれは二度目だから一度目と同じ解き方はできない。関わる変数や世界の構成がちがうからだ。しかし経験はしているためあの時の教訓自体は形をかえて活かせる可能性がある。この動画の中で小沢が政治的に極端な立場の人々が出てきたらすべては台無しだからそうさせたくないといっていたのは単なる一般論ではないように思う

*2:アマルティア・センの潜在能力アプローチのようなものか。ここは不勉強なのだが、制度と主体化のクロスする地点のことである。人が他者と共に社会を生きるときに必要な関わりがあるとすると、その力を育てる経験である。話しながら出会いと別れを経験しながらある時はひとりで考えながら時熟していくもの。あるいは人間が生まれたときに持つ力は個体によって様々であろうがその持てるものを伸ばしたり活用したりする時に、その手足をのばす場所や時間のようなもの。こういうものは認知の発達や人間の教育としてよく議論されるが実は法-権利の問題でもある