細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

変な日記

 人に言葉や条理を尽くして考えや思いを述べること。相手があなたを理解できないのは単に説明していないからということが大きいはずである。また単純に相手を知ろうとする作業がうまくできていない場合も多いだろう。自分を知ってもらうには相手を知ることがともなうからだ。(また逆に相手があなたのことを知ろうとせず、理解しないそういうことがたくさんあろう) 
 私が介護者の時利用者への声掛けは大事だと言われた。私は声掛けという言い方が嫌いだった。なんか不自然だったからだ。でも介護は仕事でもあるからただぼやーっとしていても、じつはお金分の仕事ではない。ぼやーっとしてても時々、「歯磨きした?」とか聞くのである。私は辞めてしまったがぼやっとしながらもどこかで気にかけているのである。「元気ですか?」とか「元気?」って聞いても意味が分からなかったら、「よく眠れた?」とかでもいい。
 とにかくとっかかりをつくり、自分はこういうことをしたいがどうしたらよいかと話しかけるのは介護においてとても大事である。

 自閉症者でオウム返しをする人がいるが、もちろんゆっくり話したり顔の表情や動作をみながら言葉かけしてその反応をみるようにする。極端な時は文字に書いてなんども復唱したり一緒に確認しながら行った。

 この世界にいるとき、僕らはみんなさみしい。なぜか生まれてきた理由もよくわからずいきなり投げ込まれているから。実存主義のこの教えは正しい。
 様々なハンデキャップがあればなおさらそれは堪える。身に染みる。しかし言葉を使うことでなんとか我々は励ましあって(いがみあって)きたのも事実なのだ。

 障害者を例に出したのはただ単にあらゆる人が、言葉の難しさを感じつつもそれを互いの間の仲立ちにしているといいたかったからだ。(言葉は貨幣として現象する場合もあるしものになるときもある)どんな人であれ、そうしている。

 そして言葉は観念としてだけ現れるわけではない。(今日観念という言い方もあやういのかもしれない)

 だから、観念として言葉を大事にしろというお説教をいいたいのではない。言葉自体によっかかって芸術をこしらえても仕方がない。もちろんハイデガーがいったように「言葉は存在の住家」なのだから、言葉や記号といったものがなければ、我々の生活はほとんど成り立たない。存在自体が言葉によって成立している。ハイデガーのいう存在=seinは実際英語で言うbe動詞にあたる。seinは文字通り、何かを存在せしめる。「ある」という意味なのだから。

 昔お経というものが開発されたのもそれを唱えないと生きていけない、しかし長く難しい文章ではダメだというわけでエッセンスとしてお経にしたということはあったと思う。そういう便宜的な事情と形而上学的な、己の存在を高め、救うということがたくされているのである。

 まじないやお経は一歩間違えれば危険だが、そういう危険も押さえながら、私たちは言語にどっぷりつかっている我々のありようを考えてみなければならない。言語は実際幻を生む。例えば統合失調症の「幻聴」が声の形をしていたり、心の病理というものがどこか強迫的な悪循環のことを指すのをみるならば、自己言及的な心の負の部分をみることもできよう。

 言葉じゃなくて気持ちだといわれるがそんなわけがない。愛情もまた何らかの視線やシグナル、表情、言葉、動作すべてが状況と絡み合った形でつたえられるわけである。気持ちは言葉の効果であり、恐らく言葉の原因でもあるのだ。逆に言葉を組織するのは気持ちであり、気持ちを組織し組み立てるのも言葉だ。相互にループしている。相互に亢進しあいまた相互に妨げあう。
 
 「あそこで人生の歯車が狂った」という表現があるが、循環しながら己にエネルギーを供給しているのだとすれば、好循環も悪循環もあろう。言葉は己をだましたり励ましたりするところがあるから、自らその言葉にすがり信じようとするからそういうことが起きるのだと思う。
 
 手話や、からだがほとんど動かない人が使うアイサイン、などもむろんのこと言葉である。知的障害の人にも様々な伝達方法がある。しかし文字言語文化においてはかなりのハンデを追っている。
 
 だから言葉を狭い領域に閉じ込めて把握しないこと、複数の言語の用法があるということをまず注意しなければならない。
 そしてそのように多様であることが、拡散や相対化だけを指すのではなく、言葉は選ばれ自らに掴み取られる。その掴み取りあるいは発するところに己の切っ先が明滅し始める。誰しもそういう覚悟をたたえるはずである。
 言葉を与えられたものとしてではなく、自らそれを使用し構築する立場に立つ必要がある。主体的もへちまもあったものではない。我々は言葉なしには生きていけない。そしてそれは自分がとりあえず言い出してみるということで多くのことは始まっている。聴くこともすでにそれは言葉に沿うことで相手と共にあらんとする姿勢なのだ。しかし言い始めることはすごく難しい。

 もちろん私は人に勇気をもてとかそういうことをいっているのではない。お互い信頼しあって関係を構築するためには、とりあえず自分が手持ちの言葉をつかって問いを、アイディアを出してみる必要がある。原理上、これは誰でもできるのである。
 うまい下手はほとんど意味をなさない。くしゃみですら強烈な批判になりうる。あくびもそうだ。ただ意志を込めてすることが大事だ。意志と無意識があいまいな場合もあろうが、それも含めてその人がしたことが何かを開始するのだ。
 
 下手でもなんでもしゃべってみる。よびかけあう。そういう世界。

 それは私たちが生まれた瞬間、孤独だからだ。
 孤独だけどよくわからない暖かいものも感じながら生きてしまっていた。
 まるでそういうものがないひともあるだろう。
 しかし孤独であることは変わらない。富があろうがかっこいいかわるいかに関係なく、まるで関係なく孤独はやってくる。孤独は重い。
 けれどもその重しによってやっと我々は生きているように思われる。その重みの感じ方は様々だし置かれた状況は様々だがどこかで私たちは一人で生きて死なざるをえないものとして生きている。それは絶望ではないかもしれない。

 そこでいやでもなんでもとにかくなんらかの形で人間仲間と生きざるを得ないという条件にあった。未熟な形で生まれるなどいろんな要因もあって。ただしかしそのことは弱さでもあるが、逆に豊かな関係性をはぐくむ培地でもあった。つまり母であれ、誰かとであれ、人間仲間としかやっていけないときがあった。もちろん大きくなれば人は一人でも生きていける。というかあまりにも私たちはアノニマス(匿名)になりやすい。ひとりでさまよって、あるいは集団の中で私たちは何者でもないときがある。ただ私は私だで生きることは間違いがない。その間違いなさを認めた上で、ただ私たちがなぜか集合として一人ではなく生きている現状をみて思うのである。
 どうにかしてきれいごとではなく協力して生きていったほうがいいかもしれない。温かいがしばりつけあう連帯ではなく、互いに普通に協力し合うこと。

 普通に協力し合うことのそのベースを確かめること。協力し合うことはコンフリクトのもとでもあるがそこでしかなしえないこともあること。集団か個人かではない。ただいろんなひとが集まって社会が持続しているということ。形を変えながら。

 しかし協力しあうだけではなく離れて考える。ぼんやりするということもあるのである。そういう形で仕事をなしている人もいるのである。
 ひとりで、話はじめたとき、あの人はこう語った。と誰かが言う。

 あの人はこう語った。なぜ語ったのかわからない。そこに名前がついたりつかなかったりした。名前はあったのだがほとんどのひとが忘れて覚えていた人も死んでしまった。語り継がれないたくさんの名前があった。それを人は無名という。無名とは何か。


 

 こういうのは自分にいっているのであるが、ほとんど体をなさないようなお話である。ただ多くの人に呼び掛けているつもりである。友達を作れとかコミュニケーションが上手になれとか断じてそんなことではないですから安心してください。

 いま夜の6時すぎです。おなかが空いてきました。

 あなたは今なにをしていますか。私はキーボードを打っていますがさっきまで読書していました。

 変な日記ですね。そう変な日記です。ではまたごきげんよう。