細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

梅森直之編著『ベネディクト・アンダーソン グロバリゼーションを語る』光文社新書読了

ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る (光文社新書)

ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る (光文社新書)

第一部は2日間行われたアンダーソンの講演録である。主に自身の履歴と「想像の共同体」とそれ以降の仕事の展望が語られている。第二部は編者の日本政治思想史学梅森直之氏のアンダーソンについてのノートで第三部はアンダーソンと質問者の14この質疑応答である。

アンダーソンは私が先入観をもっていたより複雑な思想家であった。
己の出自の問題(中国で生まれ、父がアイルランド出身、母はイギリス人。ケンブリッジを出てアメリカで政治学を研究することになる)から始まり、培われた素質が人文系のものであるにもかかわらずなぜ政治的とも思える分野に入ったのが語られる。
当時のアメリカのナショナリズム研究の水準は高くなかったので自ら方法を作られねばならなかったこと。アメリカは仮想敵国や貿易相手国への研究は盛んだが東南アジア研究は当時盛んでなかったこと。そののち当初インドネシアの研究をしていたがベトナム戦争時、「東南アジアの研究者」なら誰でもいいということで集会などに呼ばれた逸話。インドネシアスカルノ政権が倒され、スハルト政権になって彼の入国が20年以上禁止処分を受けていたこと、それで致し方なくフィリピンやタイの研究をするうち、比較研究的な研究を思いついたこと。

そういう自らの研究が結実して「想像の共同体」が生まれたが、フェミニズム、マイノリティなどへの視野が充分でなかったことを反省している。また商業出版と印刷技術がネイションの同一性の幻想を作り出したことは指摘したが、当時の電信や蒸気船技術で、国際的ネットワークを独立革命家たちが利用していたことに後で気づいたといっている。(これらは想像の共同体の改訂版や以降の著作研究に反映させていっていると。)

つまりまずテロリズムや要人暗殺が電信で伝えられ、他国の政治勢力にインパクトを与える効果をもっていたことが語られる。またフィリピン革命はキューバの革命から多くの影響を受け、そのフィリピン革命に関わった人物が日本に渡航していて様々な情報を発信していたことである。実際末広鉄腸という作家がフィリピンの革命家ホセ・リサールのことを書いたという影響関係が確かめられる。(この辺りが第一部で語られる)

アンダーソンは恐らくネーションを相対化するということでは済まないグローバリゼーションの系譜を追及せねばならないと思ったのだろう。

いったい何故か。私も先のようなキューバとフィリピンと日本、そして中国大陸が意外な形で連動していることに驚いた。それは私たちがいま立っている地面がどこかとつながっているという事実が昔からあったのだということだ。

例えば魯迅の日本との関係、北一輝辛亥革命当時中国に渡ったことなどは知っていた。しかしそれよりさらに広い状況の中に当時日本がすでに置かれていたこと、中南米東南アジアが頭の中で大きな位置を占めていないことで、先の大戦のみ方はゆがんだものになっているのではないかとか考えたりする。例えば大東亜共栄圏のような発想がどこから出てきたか理解できなかった。しかしフィリピンに協力した日本が独立した後のフィリピンを併呑するというフィクションを末広鉄腸が書いたという事実がある。つまり、関係が対等なものではなく「上から飲み込む」形で、しかもそれが「共感」から出発してそうなってしまっている。それはあの大東亜共栄圏の発想にそっくりだと思った次第である。

グローバリゼーションはそう考えるならば、現代の911の国際テロや特定の貧困や逆に金融資本の移動や自由化だけで描かれてはならない。つまりそれは国境を超える力に加担するか、あるいはナショナルなものに同一化していくかの二者択一になってしまうからだ。(これは現代ではリバタリアンコミュニタリアンの対立として描かれる)

そうではなく足下にある事実の強力な流動性や思ってもみない人やモノ、テクノロジーの移動のもたらす効果をきちんと測定することが大事なのだ。
流されないためには流れている川の速さを理解せねば、足元をすくわれる。そういうことである。

私はその勉強の端緒についただけなのである。
日本の福祉制度や社会保障の状況も単にネイションの国家財政の単純な貸借や人口変動の議論ばかりに左右されてはならないのであって、どういう変化が地域社会で起きているか、そもそもコミュニティとは一体何かということが論究されねばならない。

それをこの本の編者の梅森直之氏は第二部のノートで「人と人とのつながり」と語る。
そしてこういう。

一般的に信じられているように、ナショナリズムの時代が終わり、グローバリズムの時代が到来したのではない。グローバリズムは、つねにナショナリズムとともにあり、むしろその生成と発展を促してきた。アンダーソンはこのように主張する。
 そこでは『想像の共同体』の分析とは異なり、ナショナリズムという理念の特質は、もはや閉鎖的な境界の設定には求められてはいない。むしろ初期グローバリズムの時代に活躍したナショナリストたちが自らの活動の向こうに、つねに他の地域のナショナリストの理念と実践を意識していた事実が強調されていく。こうしてナショナリズムの創生と発展は、グローバルな舞台で演じられた思想運動の一つのケースとして位置づけられる。
 こうしたアンダーソンの見解は、ついさきほど検討したばかりの二者択一のどちらとも、鋭く対立するものだ。僕たちは、つねに問いかけられている。グローバルな経済競争と、閉ざされた人間のつながりと、あなたはいったいどちらを選ぶのかと。アンダーソンの研究は、この二者択一の問いかけそのものを、歴史の重みによって粉砕しようというものだ。

もちろんこの見解は異論もあろうし、私もまだ未確定な感じを持つ。しかし可能性の方図はこの辺りかなと思われる。

僕らが共同体について思い描く時それは「アジア」や「日本人」という考えや感覚に強く囚われているのではないかと思う。もちろん人は言語的共同体に住まうのではあるけれども、しかしどこかで身近なものの中に異なるものを異なると思っているものの中に共通する何かを発見することは大切ではないだろうか。

アンダーソンは「アジア人」という概念についてこう語っている。

確かにロシアがアジアに入るのではないかということはいえると思います。そして、そのような傾向はますます強くなると思います。
アジアというのは、歴史的に古代ギリシャ人が描いた概念です。エーゲ海の向こう側の地域を指す言葉としてアジアが生まれ、その指し示す範囲が徐々に拡大されてゆきました。ヨーロッパ人が東に行くにつれてアジアという考え方も広がってきたというわけです。しかし、この言葉はもともとヨーロッパからの切り口です。
いわゆるアジアの人たちがどのように自分たちをアジア人だと考えるようになるのかは不思議な問題です。一般の人に、あなたはアジア人ですかと聞いてみても、どうしてそんな質問をされるのだろうと不審がられると思います。アジア人だという気持ちを持っているアジア人は実際少ないのではないですか。アジア人という概念というのは、知識人のあいだで議論されるものです。それはヨーロッパとのコンタクトのなかで出てくる考え方だと思います。

ここでアンダーソンが質問者に答えていることは複雑である。アンダーソンは、アジアはヨーロッパからみられた概念だという形で、西洋中心主義だけを批判しているのではないように思われる。
つまり、それは西洋文化圏に対抗する「アジア」という像もまたある種の反動ではないかという疑念である。

私たちはアジアと呼ばれる地域にいるが、自分は今自分が生きている場所を「わざわざアジアと意識する」ことはあまりない。そしてそれは変なことではない。わざわざ意識する時に反動形成的に立ち上げられてしまう何かにからめとられないことで我々は逆に、アジアの人間であるということを、あるいは今ここを大切にできるのではないか。

そして他面でアジア人であることや日本人であることを非常に意識するのはまた、他の地域や国から来た人たちのことをきちんと考えるときに起きることである。歴史について、私たちの社会の政治について。私たちはそういう意味で、自分たちの位置を素朴に真直に見定めたうえで物事を考えるべきなのだ。

したがってこれはコミュニティやネイションについて考えるときに留意すべき要件として、つまり陥りがちな事柄として考えるならば、これまで私たちが思ってきた日本を変えていく一助になるだろうし、すぐそばにいる異邦人のことをあらたに考えることができるだろう。
こないだも買い物にいったらレジにお金を払いに来たおばさんが中国語を話していた。最近中国語をよく聞く。おそらくこの状況は歓迎するしないに関わらず今起きつつある出来事である。

私の頭の中にある地図が変わっていくのを私は感じる。日本が征服される!とか彼らは被抑圧者だから…というだけでは足りない何か。普通にそばですれ違うものが描く軌跡。関わるかもしれない。そういうすぐそばにある未来。地図を豊かに作成することで、自分の生き方も変わるはずであり、日々変わる地図の上で私たちは生きている。

アンダーソンの仕事をうのみ出来るほど勉強はできていないが、アンダーソンの明るく真摯な語り口と梅森氏のわかりやすく本質的な紹介によって久々に目からうろこが落ちた読書であった。