細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

支離滅裂と具体的なもの

 本をいっぱい読んでも、単なる知識まみれになるだけかなと思いながらも、渉猟しておるわけである。
 生活の諸課題に対応するに、実は知識なんてそれほどいらんし場合によっては毒にもなるだろうとは思う。
 自分は、実際抽象的なことをいっぱいいっておるがそれはひとえに病気やなんかによる生活の具体的な狭さからそれは来ている。狭さや貧しさが具体的である。しかしそれらはただ単に経験的な何かに置き換えられていいものではない。

 というより、僕は実際プラクティカルな物事の解決法を好むのである。親父は大の本嫌いで自分も高校2ねんくらいまでほとんど読まなかった。しかしバカが過ぎた上に暗すぎて本しか友達ができなかったのである。

 しかし君の考えは抽象的だとか、いや「役に立つ」というのはどこで決めるのだろう。というのは今の世界で起こっているほとんどの生存苦悩は、その「実際的」とか「抽象的」(マルクスなら物質的と観念的という言葉を使うだろう)という言葉そのものを区別する枠自体に変化が起きており、それが大問題なのである。

 例えばかつてより「国」は当たり前の存在ではなくなった。つまりそれは観念的には相対化された。しかし、観念的に相対化されただけでは、我々が「政府」を持ったり創設したりするのはなぜかという問いが解けない。むしろ一層見えにくくなるはずである。

 観念的に相対化されることによって「国なんてどうでもいい」という主張が表れ、しかしその主張がこれまで国を自明視してきた人々の不安を惹起し、それほど「国」を主張しなくてもいい場面で「国」を主張する右や左の人々も出てくるわけではないだろうか。

 そしてこういう変化をもちろんグローバリゼーションが後押ししたり、ある場合には逆行させるわけである。国際的な富や生産物の移動が国家の威信を引き下げることもあれば逆に強化の口実になるだろう。

 これは一例にすぎないわけでこの問題は僕にはよくわからないので思い付きをならべるのを控える。*1


 いろんな部門で、これまでに使った言葉は次々に失効し、しかし過去に閉まっていたはずの幽霊みたいな言葉が、恐らく意味をもつこともあるだろうと思う。

 例えば死刑について考えるならたぶんキリスト教とかあるいはもっと古い共同体がもっていた罪とその対価とされる罰の概念とはなんだろうかみたいなことも考えたほうがよいかもしれず、そういう意味でニーチェの「道徳の系譜」における「負債感情」とかいったことも引っ張り出してくると面白いかもしれないとか。

 だって、裁判員制度とかいい面もあるんだろうけど、自分たちもなぜか参加することになってるじゃないか。だとしたらば、そういう具体的な場面で恐らく形而上学的な問いが頭をかすめたりもするはずである。で、それを深めるならば罪をあがなうってなんなの?とか想像してしまって。

 また思い付きでだらしないが、まあいろいろ考えながら頭も心もシャッフルしてみようと思うわけです。

 こういうのを読んでると支離滅裂だと思う人もいるだろうと思うのですが、開き直るのではなく支離滅裂なのですよ僕は。それを抑圧せずに、流れにしていくことが僕の心の治療なのです。支離滅裂を赦し、しかしそこで起こる様々な事象には少しく付き合う。実際精神病にそれ以外の治療法はないのではないでしょうか。

 支離滅裂をゆるしたうえで、実際の意味では「無責任」になりすぎないこと、責任が果たせるものについてはそれが果たすことが可能なら果たすこと。しかし責任とはなんですか。それを果たすってどういうことか?基礎づけるものは何ですか。根っこから考える必要があるのではないですか。なぜってこれまでのようにはいろんなものはいかなくなっているでしょう。それは内的な感覚ですか?それとも外部にある対象に向かってですか?内と外をわける境界に位置するものでしょうか。あまり思弁はやめますが、これは「お前の領分」で「これは俺の取り分」なんて簡単にいえないことがわかるでしょう。そういうことと国家の問題も、人の死の問題ももちろんつながっているような気がするけども。
 だってフェミニズムとかだって実際に起こった人々の変化と連動しているわけでしょう。労働や生産がこれまでと同じでないのを「働かない若者」のせいにしているわけにいかないでしょう。僕も変わっていくことに慣れることができないし、また変わることがよいことばかりではないですが様々なものが実際に変わっているわけでしょう。軸を変えないのが言論の勤めなのはわかりますし、思想もそうかもしれない。
 しかし僕は今ここで病気や働けなさを生きているわけですからそれを思考するしかないし、それを日々必死に考えてくたびれますよ。(僕の尊敬するニーチェが観念論を退けようとした理由は、今ここに発している生命や活動を感じるのに邪魔だからという大事な理由があったからで、だからニーチェは重要なんだと思います。だけどニーチェばっかり読んでもニーチェはわからなくなりそうだ)
 でもそれが生きるってことでしょう。
 
 
 

*1:しかしボードリアールのような論者が「生産中心主義」から「消費の生産」へ、そしてその消費の生産はあらゆるものをバーチャルにしていくとかいっていたころはわりかし悲観しながらもああそういうもんなんだなあと思っていたが、実際に記号の消費とかが人々の搾取や苦しみみたいなものを推し進めていくと、マジで今みたいな社会になった気もしないではない