細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

「サイテー」はサイテーか。

 すこしおかしなタイトルをつけてしまった。

 夜に蝉が鳴いているので困るのである。そういうこともある。しかしずい分前から、いいたいなと思っていることがある。
 それは言葉にすると大げさなんだが、生きているのに、必要な条件はある。それは人間であれば大気はないといけないとかそんなことだ。でも「条件」という場合思い起こされるもう一つのことがある。それは「おまえはこういう存在でなければ受け入れられない」「こういう存在でなければ参加は許されない」ということである。
 どのような世界にもそのような条件があるように思われているし、私も思いなしている。例えば、女にもてるには「○○な男」でなければならぬとかそういう事柄もあれば、「特殊な技術がないとこの職場に入れない」ということだったりする。

 それが自分の実存と絡み合って、知らない間に「こういう男でなければもてない」ということと、自分の「こうなりたい」が合体していたりする。

 しかし実はそういうことはあんまり生きていく上で肝心ではないということだ。(もちろんある次元では頭に入れて行動する必要が在るときもあるだろう)

 ひとりの個人ゆえに、有限であるのだがそこから考えても「サイテー」な「私」がいる。「愚かな」私がいる。それを他人ではなく自分が、不承不承ながら、そういう「私」もいるなあと思っておくこと、それこそ大事なことなのだ。
 学生時代適性試験なるものがあり私は、「ストレス耐性」が1つまり「最低ランク」であった。様々な場所で、あるときは精神科ですら、「心が弱い人なのではないか」といわれてきたのである。

 確かに「恥」や「こんな私は嫌だ。さりとてどうあっていいのかさっぱりわからん」状態に陥っていることが多く、しかしそれは自意識の問題なのであった。けれども自意識の苦しみも充分深いのである。

 自意識の苦しみは様々な場面で「恥」をかくことになる「人生」においては多大な障害となる。人は見栄をはってしまうのでガンガン自分を追い詰めていく。箸の上げ下げ、歩き方、あらゆる所作、内面の生動、腹の動き全てが気になり、自分を不完全な、つまりは「中途半端」な「生命」を意識させるのだ。

 その滑稽や愚かしさがもはや隠しおおせなくなると私もご他聞に漏れず、ジタバタした。顔から火が出る、本当に火が出るように頭が熱いのである。熱い頭で考えることは自分の非や恥を聞くだけで逆上して、周りに当り散らすようなことである。そのときの私は、倫理的にはどうかわからないが、とにかく自分の許せるラインを優に超えており、周りにも怒る人や離れる人が現れ、それがさらに自分の心を痛めつけるのである。
 とはいえ、そのままでいると、心の鉢が割れてしまい、さらに「サイテー」の深淵に落ちてゆく。というか「サイテーかサイテーでないか」わからない境涯に達するのである。

 そんな境涯に達するのは、一気ではヤバイ。身体がもたない。5年前の私は「サイテー」だったけど、今はそっから変わったよなとかそう確認するようになってきた。

 そのうち段々懲りてきて「サイテー」といっていた自分もサイテーかどうかわかんないではないかと腹が据わってくるような気もするのである。

 いつか「もっとひどいサイテー」が私を見舞うかもしれない。見舞わないかもしれない。しかしそれに煩わされて苦しむ若さを私はもうあまり持たない。ならば、サイテーではないようにはしたいが、もしサイテーになりそうになっても挫けないで、そのままの「サイテー」でいればいいや、そう思わないと恥ずかしくて死んでしまう。だから最低限の倫理綱領さえもてれば、後はどうにでもなれ、いざとなれば。しかしかっこよくもいたい。そういう欲も少し残っているような昨今である。