細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

本日は気分転換の日としたい

遠野物語・山の人生 (岩波文庫)

遠野物語・山の人生 (岩波文庫)

所収の「遠野物語」読み終わる。これはいい。次は「山の人生」

ドキュメントひきこもり 「長期化」と「高年齢化」の実態 (宝島社新書316)

ドキュメントひきこもり 「長期化」と「高年齢化」の実態 (宝島社新書316)

これも読み始めている。ほとんど自分のことのようなものが感じられ、精神疾患とひきこもりの境界はそんなに自明でないのかなとか、思ったりもする。いずれも適応の場面で生じる困難だとしても、発達障害精神疾患とひきこもりは、わずかずつ異なっているが、同じ人の中にこの3っつの要素が混在していたりもするし、どういう機関が扱うかというちがいだけのような気もするし、もちろんクリニックにいって薬をもらいながら過ごしているひきこもりの人や、精神疾患メインで通っているが社会との関係がうまくいかずこもりがちな人もいるだろう。(これは数十年前から統合失調症の人ではメジャーなあり方である。病気が長期化すると社会参加の道が少なくなるわけである)あるいはかねてから知的障害者の人々がやはり福祉作業所や福祉的就労が現実的な道であったりそれも難しいこともある。これらの事象を組み入れるとなるほど非常に複雑な事態になるが、青壮年層の社会参加の困難というパースペクティブを取るならば、ひと括りに出来なくもない。しかしこれらは障害種別や行政の縦割りや政策や財源の脆弱性、差別などなどの理由でいわば見えなくなってきたことなのである。

いろんな例があるとしか言いようがなく、その困難にケースバイケースで対応してそれぞれの人生の再構成の機会を立ち上げていく他はないだろう。その上で社会政策上の方針を策定できるかはわからない(厚労省のひきこもりガイドラインがあるがそれが妥当なものかはわからないがこの本では肯定的に参照されている)*1


というか本当に重要なことは現在ひきこもりや社会参加に重大な困難を抱えている状態の人のことを考えることであり、病気かどうかを鑑別することが一番に来るわけではない。
この社会の前線で、彼、彼女をどう「処遇」するかというところで出先機関がどう対応するか、家族や当事者は病院に行くか、支援機関に行くかという場面での問題だ。
しかしここに「病気か健康か」だけを持ち出すと、困難が「働けるかそうでないか」というふうに狭く捉えられたりする。
そしてこの社会が現在問題として持っているのは、社会に入る間口が、そしてその中が非常に狭くなっているし、ひきこもりに限らず人々に狭く感じられているということだ。
これはつまりは、大きくいってしまうが社会そのもの、そこで発言したり活動したりする公としての社会の意義が問われているといってよい。
「社会人」というものが非常に頑なに墨守される一方で、「社会人(笑)」などとそれに嘲笑や苛立ちをぶつける現象もここからわかる。

つまり社会人になることは、どこかで我々が外の規範にある地点で服従、隷属することと体感されており、そのことが青春の自意識みたいなものとして嫌がられているだけでなく、自分たちが社会に参加する人間であるという誇りや気概を阻喪させているということである。

それは私たちが自ら自分たちの社会を苦しみとして表象し、また実際に社会が多くの苦しみを強いてくることの体感によって、再帰的に(悪循環的に)強化される。
「社会とは苦しいものだ」→「ほらやはり苦しい」という学習過程と同時に、実際に多くの辛い、暴力や差別的な組織慣行が存在し、互いを傷つけあっている。

 しかしそれでもへこたれながらも私が感じるのは、それを肯定的な側面もあるものとして構想できるように変えていくことはできなくはないという予感でもある。つまり自らが参加して、そのプレイヤーとなって自分自身も問い直しながら、社会との関係を更新していく契機を作ることでそれは解決の糸口をもつということだ。

 どこかでそういう是非を持ち合わせたものとして社会を考えられないかということだ。(認知行動療法はここで一定の意義は持つかもしれない)そしてそれは法規範レベルでもそうしないとマズイように思う。 

カテゴリーや規範、といったものを外から与えるだけでなくその人たち、あるいは私自身から立ち上げる視点を持たないと難しい作業だ。なぜならカテゴリーはその人や事柄をこういう風に扱う、言葉にするということで出現するのだが、他者から「こうだ」と規定されることと、自分は「こうです」「いやこうかな」と考えていく、そして自他が対話していく場面がどうしたって必要になるだろう。(これは前田「心の文法」で発見したことでもある。様々な臨床記録にはこのような側面がある)
そのような対話の場面は観察されるものとしてだけでなく、私たちの存在の構成、ありようをどうしていくかという倫理的な側面も忘れてはならない気がするのだ。

とにかくそんなことを思いながら読んでみる。

しかしそれを再度自分のものとして考えるならば、自分の抱えた痛みをなんとかマシにし周囲にわかってもらい生きやすくするということを私としては重点課題としたいようにも思う。
 精神疾患はその意味で、ある参照点ではある。
題名どおり今日はなんらかの形で気分転換してみたい。

あと昔「学校で教えたい授業」in 大阪が開催されたコムニタス・フォロというのがどういう場所か気になっている。昼間の居場所がないということもあるが、講師も募集しているようだ。一応めもっとく。

*1:実はさらに様々な社会領野が対話を重ねないといけない。つまり一部に排除された人がいるのではなく、あちらこちらにひきこもりや貧困者、高齢者、精神障害者知的障害者身体障害者というバラバラな扱いを受けながら、それゆえそのような属性に寸断されたたくさんの社会参加困難者がご近所にかならずいると考えたほうがいい。実は、このように多くの人の問題を見過ごすことがこの国の潜在的な力を奪っているのである。それを抜きに国力が弱まっているというのは笑止である。これらの人は様々な場所に寸断されつながれないままなのであり、そのことは当事者だけでなく、それらとうまく関わりをもてないでいる比較的元気な人々の力をも潜在的に少なくしているかもしれないのである。なぜならある程度の多様性を含むことなしに社会はうまく機能することができない。自ら「私たち」の枠組みをきつく絞ってきた結果が今日の日本社会の独特の閉塞感を生み出しているともいえる。(他の北欧諸国は差別を禁止する法律(アメリカではADA)や総合的なノーマライゼーションによって、この部分の閉塞を打開しようとしてきた。日本にはそのような取り組みが目立たず、人権や社会的公正、労働の分野で国連の各委員会から再三勧告を受けている)しかしこれらの国には日本にはない欠点も多くあることは確かである)