遠野物語
- 作者: 柳田国男
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1976/04/16
- メディア: 文庫
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これ読んでる。若干ノリにむらがある気がするが、いきる、いきてるってこういうキツイ部分があるよ、そらいろんなものが見えちゃうよってのが感じられる。一〇〇年前に記録したこれらの話がなぜ自分に届くかを考えている。もちろん答えはわかっていて、いくらテクノロジーが発展して様々なことが起きても、この宇宙で自分たちがほとんど無意味ともいえるような刹那をある存在者として過ぎていくということは変わっていないわけだ。
生まれた場所も時間も国も家も選べない。しかしそのような押しつぶされそうな、実存の只中で、人はさしたる重みもないようにも見える形でそれぞれの行いや選択を通して、生きていること。
「外国にある人」に伝えると跋文が書かれている。遠野の人が見た幻や異人や怪奇にこの世界の現実が映し出されている。遠野の人はそれを語ることによって自分たちがいきる現実に「言葉」を与える。
多くの異人や山の中でみた女や男は、恐らく村から飛び出した人たちである。あるいはこの世から去った人である。つまり遠野の人から見たらそれは外国人でありある場合には不在者である(この二種はなぜか截然とは分かれていない)外国人や死者はファンタジーや物語の形でしか登場しない。(東北に出没していた米ロの船やそこから渡ったひとのことは記録されている)
柳田の周りの人々は遠野の人よりよりひどい形で、この現実を夢のように生きている。不在の痕跡すら残さないのだからそれらは伝承されない。それらのことへの率直な苛立ち、恐れ。つまり私たちは遠野の人たちよりもさらに恐るべき形で疎外されていると。
その疎外は根底的で、自分の生きている場所、現実そのものの外側にいるようだ。つまり我々は外国にいるようだ。そう柳田はいいたかったのではないか。柳田は若かったから、自分は真実に触れたと思ったが、ある間接的な語りの水準でそれに接近しえたということを後に自覚したのかどうか。
つまりリアリティそのものの次元に触れることがどういうことであるか。それはけして楽な作業ではないのではないか。
そういうことを思いながら、読んでいる途中である。。