細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

より様々なものをみながら生き地獄的なものも想定に入れなきゃこれからの人間はやっていけないことになるんじゃないかなって

 ひとりひとりの人間には使命があるという考え方はどこから来たのかはわかりません。が、しかし世界に放り込まれて誰がそういう使命を与えているのかそれが使命なのかは別として「ほら生きてみろ」ってことになっているわけですからどんな親の元に生れようが、どんな国に生れようがそれは基本的には変わらないはずなんですよね。
 そういう考え方を「実存主義*1で「投企」*2って呼ぶんだっていうふうにどっかで教わったんです。つまり人間は必ず自分が一切の出発点だという前に、いきなり産み落とされある状況の中に投げ込まれてそこで必死に生きているんですね。
 だから子どもの頃の家族の状況で様々な傷を負った人はかなり大変なことも多いよって説明されることが多いですし、私も子どもの頃虐待や暴力を受けた人と話したらこりゃ大変だと思うんです。経験的に。
 
 ただ自分も小学校の頃かなりいじめられて中高でもなんか「弱いもの階級」に入れられたりしていましたので、そういうのですごく気を張ったりすごく疲れたりしていきてきたせいかわかんないけど、そういうので人と人の間で暮らすのはすごくしんどいときがあるんです。

 というのは、この世界にはたくさんの種類の「生き地獄」があると思うんですが、僕よりふたつくらい上の人で「葬式ごっこ」事件*3といいますけども、つらいいじめで自殺した人がいました。

 そのときも「もう生き地獄になっちゃうよ」といって亡くなったらしいんですね。
 そのときいろんな評論とかでましたけども、あるルポを読みましてこれは切ないなと思いました。いじめについてはいろいろ書くのはしんどいですけど、やはりその人間が隷属させられ、様々な状況の中で自分がある関係に取り込まれて徹底的に無力だという地獄の感覚があります。

 こういうのを法的に制度的に「許さない」という取り組みはまず大切だと思うんですが、やっぱり「生き地獄」ってなんだろう。それも生の感覚ではないかとか思うんですね。
  
 様々な意味で、深く追うと人が生命として生きるための綺麗なお膳立てや、理屈は存在しないんですね。とにかくまず死なないように飯を食い、眠り、その活力をまた人との交流で得ているんです。そこで色々なしがらみが出てきますがいっぺんそういうところまで還元してみますと、じゃあそういうとにかく死なないように生きているというか、生命が自体的に、それに即してその機能をはたらかせることで、なぜか生命は成り立っている。

 だけどそこに意味らしい意味みたいなのはなくて、もちろん言語とか使いますけども、「あんた生きている理由何?」って聞かれても「いや生きているから生きているんだよ」ってしかいえない。

 誰も答えられない。
 私がいじめられているとき、それからそれ以降自信がないときにかならず浮かび上がってきた感覚はしかし、「おまえはちゃんと生きていない。答えていない」みたいな要請の感覚だったんです。周りの人間や世界が、「いしかわくん、なんで生きてんの?ヤル気あんの?逃げんなよ」って毎日とうて来る気がした。それからは逃れられない。

 もちろんハイデガーだとそれを本来性とかいうんでしょうけども*4まあある程度「俺ってなんかやれているよな」って感覚を持てたほうがいいでしょうし、そういう「問い」から免れた方が色々都合もよいかもしれん。つまりハイデガーがいったりするほど、「本来性」というほどかっこよくなくてですね、きわめて「生き地獄」

 よく精神病者は「自然な自明性」*5を失っているとかいう説もありましたが、ともかくそんなかっこいいもんじゃなくて、ただやり過ごせているかそうじゃない状態にはまり込んでいるかじゃないですかね。
 そうじゃない状態にはまり込んだら、そこでいろいろもがいて、普通意味を感じなくていいところに意味を感じますからそれが声になったりして聞えてしまったり、多くの人がなんとかやりぬけているところで躓くとそれはあなっぽこみたいなもんですから、そこは誰も改めて語ることをしなくちゃなんないですから。

 生き地獄っていうのは、スルーしがたくなった人に訪れるある種の疲労やなんかですよね。意味がないところに意味をもとめたり、意味があるところに意味がない感じがするんですから。そういうのはあるバランスが狂えば誰でもなりますが、そのバランスは「差別」とか「常識」とか色んな言い方をされますが、ある種の健康だなって思うんです。

 そういう健康に基いて様々な仕組みがその上にのっかるわけですから、その仕組みの穴に気づいたら、一旦は健康から見放されていき地獄になるんじゃないですかね。
 でも元は人間は、なぜ自分が存在しているのかよくわからない状態、つまりそれ以上遡行してもしょうがないデッドロックをもっていますから、病気やオチこぼれるってことはそれにもう一度ぶつかりなおして、また自分の生命についてこれはなんなんだって見直して当たり前のことを確かめなおす中で新しいものもできるんじゃないですかね。

 僕が大学のときに授業で実存思想をならって、でもそこには「本物VS贋物」の生き方・自分みたいな対立があるからおかしいなと思って、ああそうだどっちが本物かじゃなくて見る場所が変わってしまったら、人間の基本的なあり方について様々な疑いが生じたりまたそれを頑強に信じ込んだり。あるいはなんとか元気にやってバランスをぎりぎりとるってことで、それぞれが生存の様態なんですから、あらゆる場面を人は多く通過するわけです。
 だから人間の作る仕組みというものはどの道から行っても、なんとか生きているようにしとかなきゃ辛いかなって最近思うんですね。

 もちろん制度ってのはかならずある生き方が推奨される方向に傾きがちですが、より様々なものをみながら生き地獄的なものも想定に入れなきゃこれからの人間はやっていけないことになるんじゃないかなって。すいません。意味のわからない話かもしれないですけども。

*1:サルトル実存主義ハイデガーの存在論はある地点を曲がればほとんど別物な気がしますがおお括りですいません

*2:おおまかにこういう理解で使ってます…投企(ハイデガー) of The Answer

*3:Amazon.co.jp: 「葬式ごっこ」―八年後の証言: 豊田 充, 五味 彬: 本

*4:ハイデガーも断片的にしか読んでいないのでもう少し深めたいですけど。学者ではないのでいろいろ間違っていると思います

*5:これも木村敏経由での知識なんでイマイチ不分明です。原著に当たる必要がもしかしたら出てくるかもしれません。W.ブランケンブルク著『自明性の喪失』: 壺中水明庵