細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

待ち焦がれるものが眠る-大島弓子の漫画を読む

 最近ネットで大島弓子のマンガをすすめてくださった方がいたりして、私も遅ればせながら大島弓子の「つるばらつるばら」と「ロストハウス」を読んだ。
 読んだ感想は意外にいうのがむずかしいなと思っている。けれども、こういう作品に出会うと端的に「生きててよかった」と感じるのである。
 こういう言い方もへんだが、芸術にある面での救い、いや広い世界への通路をいつも求めているのである。こういう芸術への接し方を嫌う人もいるだろうけれど、固定化された作品を通じてというよりも、その作品の中で動いている、あるいはとどめられている感情や経験が私を助けるのである。
 よくも悪くも私は浮世離れしたままそうして生きてきた。芸術は世界のいたるところに偏在するのだろうが、それをとてもいい瞬間に受けとることは難しい。自分の側にもしかるべき準備が知らない間にできていなかったら芸術に出会うことはできない。

 こういうとさらに重いかもしれないが、大島弓子のマンガに出会ったことで少しだけもう少しだけ生き続けられる気がした。そんなふうにいい音楽や芸術を経験した時思うのです。もちろん具体的な生活の経験はもちろん重要ですが重要なのに、だからこそ意識できずに困惑したまま終わってしまうことも多いのが生活経験です。
 ロストハウスにおいて、いくつか「眠り」や「意識の低下」が重要なきっかけを形成している。山場が眠ることであったりする。大島の作品もまた自分の居場所を定めるために潜在的なエネルギーを獲得し、それが次なる世界への、あるいはいままで生きてきた世界を新しく更新しなおすプロセスに重点を置いている。

 それをある人のように「子宮」と表現できるのかもしれない。つまりある意味で保護膜であるようなものをまとい、傷ついた心と身体を包みながら、生きる。その生はおそらくもとの「生」ではない。
 しかし人間が老いていくものならば、(ロストハウスには早くに老いてしまう少女が登場するが)この語り方は正しいのだと思う。

 私は毎日生きていくことに自信をもてない。いつもよろけながら生きている。根底的な揺さぶりの中でまちがいのない「眠り」が存在し、日々は更新されている。まさしく恐るべき生への深い言祝ぎ、死への接近-ニアミスですらある。
 待ち焦がれるものが眠る。鯨の腹の中のヨナのように。しかしそれは後ろ向きではない。眠ることは時間や生命の形成そのものを孕んでいるからだ。

 なんだかおおげさになってしまったが、よんでよかった。またいくつか読んでみよう。
paint/noteというはてなダイアリーをよく読ませていただいていたら、先日こういう記事があった。シンクロしているようでうれしかった。2010-04-21 - paint/note
 このような言葉があり、私はこの文章を読んで同感でした。さる方に紹介くださって作品を読んだことも大きいし、この日記を読んでまた日記を書いてみたいと思ったのでした。

それぞれのあり方で「生き直し」「生まれ直す」。「今・ここ」は一度否定され、書き換えられる。その鮮やかさこそ私が繰り返し読みたくなる理由だし、大島弓子の作家性でもあっただろう。

つるばらつるばら (白泉社文庫)

つるばらつるばら (白泉社文庫)

ロストハウス (白泉社文庫)

ロストハウス (白泉社文庫)