細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

買い物の現象学?

最近、起こった変化といえば、昔はしんどかった食料、日用品の買い物ができるようになってきたことだ。そういうと意外かもしれない。もちろんかつてから同伴者がいれば買い物はできたし、ちょっとした買い物や本などは買えた。もちろん自慢できることでもない。みんな多かれ少なかれやっている。しかしスーパーに食料品を買いに行くのは、複雑な社会行動であり、労働である。こういうことが「できなかった」ことからできる方向へ移動しつつあることの意味を少し考えたい。
かつて主婦の家事労働に「賃金」をという主張があった。今でもあると思う。この論点は、ただ「賃金」を出せということだけではなかったと再発見する。
様々な社会生活への違和、それどころか日常の自明性が構築できないという中で、その原因は非常に特定が難しい。しかしいえることは、自分の基本的な「居所」を失っている、あるいは離脱したということである。どのような機縁からそうなったか。
それは端的に「日常」が個々人にとってある「信憑」の体系であることをおさえる必要がある。例えば買い物で言えば、外へでるということだけではない。あらかじめ生活に必要なもののリストアップ、つまりそれは家の在庫の確認、それに必要なお金、それを手に入れるためにどこへいけばいいかという知識を伴う。

何が必要かということがある数日間の見通しを持たなければ、単なるお使いではないまとまった買い物は不可能である。いまこれだけしか食材がないということ、これからどのような飯を食うかの大まかな見通し。これらを目的としうるには、いまの生活への大まかな信頼、それに支えられる日常生活への基礎的な信憑がないと出来ない。そうでないと買い物はバカらしくなる。食うものがなくて死んでしまうとしても、ばかばかしさの方に傾斜して何もしないということはありうる。

これはまったく大げさではない。これらの作業が日常生活を支えているという意味で、「労働」だということが重要なのだ。
もし様々な意味で日常性への信頼を失うならば、正直買い物なんてやってられない、ゴミなんて捨ててられないということで、栄養が偏り、ゴミだらけになってしまう。ゴミ屋敷や孤独死を日常生活をささえる確かさの枯渇と考えれば、確かさという資源の低下にしたがって、日常生活つまり生きることが枯渇していくことが見えてくるだろう。

また、買い物に行くことは「市場」に参加し、その中で取引をするわけであるから、自分の限られたお金の中から必要な日常を作る資材を買いだすという非常に重要な経済学的行動である。
また社会的な視線に支えられることでもある。他人が怖い、あるいはスーパーでの必要な振る舞いがしんどいということになっても買い物は不可能になる。

逆に言えば健康な人はこれだけの仕事を疲れながらも成し遂げている。しかしなしとげられなくなった場合その代償はきわめて高いものになる。したがって、買い物や掃除、洗濯という家事労働が困難になることはいかなる価値観を追及しているかにもよるが、それでも重大な障害としてたちあらわれてくることはまちがいない。
そのようなことを家事労働の重要性はいっているのではないかと思った
。ハンナ・アレントの公共性論でうまく処理されていないのはこのような意味での「労働」がそれから脱落したものにとって非常に苦しいという視点だ。ただ単に「生命維持」という話ではないし、ある意味では「生命維持」だから重大なのだ。そこをアレントはしらずか故意にかわからないけれど言い落としている。

さて
最近見た映画は「第9地区」という映画だがこれは南アフリカを舞台にしており監督は寓話的に、アパルトヘイトを表そうとしていたようだ。それは大成功とまでいえるかはわからないが一定程度それを表現しえているのではないかと思った。
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/100417/tnr1004170812004-n1.htm
http://d-9.gaga.ne.jp/
またこの本は痛快である。山口昌男の懐の深さは「学校という舞台」のいじめ論を読んで震撼されたときから感じている。

学問の春―“知と遊び”の10講義 (平凡社新書)

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