細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

「トカトントン」を考える

ちょっと徒然なるままに書いてみようかと思う。

最近寒い日が戻ってきているが体調はまあまあだ。あいも変わらず社会復帰だとかなんだとかが気になるのだが、これはもう思春期の頃からの習い癖のようになっている。
社会復帰や適応に関する悩みや怒りのあれこれは、自分が意地を張っている「主観性」の部分と、社会に問題があったりする部分に分けられる。しかし世の中を呪ってばかりや自分の主観性ばかりを掘り崩してもほぼなんの幸せもこない。
つまり自分の「主観性」と社会を媒介したり、その都度の問題解決や生活をよくしていく「間」のようなものを自分の認識と外界の接触の中で「制作」していく必要がある。
その手前に、人間ってなんのためにいきるのだろうってのがあって。
あるいは賃労働は、それなしには「おまえらはいきていけない。だからはたらけ」という脅迫?の部分があって、もちろんそれらは個々人の「生きがい」の形成に必要なのだろうが、しかし一度しんどくなってしまった人間にはそれらが絶望的な強迫に見え、それは若者のみならず多数の社会参加の困難を生み出しているように思う。これはもはや個々人の性質に帰すれば済む問題ではなかろう。

もちろんよくがんばっているひともいる。そういうのを気にせず、能動的にニヒリズム状況の中で生きている人もいる。

日本には、核攻撃と壊滅的敗戦という事情もあり、またその国家体制が、自治的な要素(天皇の存在はその一部である)を相当抜かせてきたために、国民生活=制度順応という面があるのではないかと思う。この制度順応は「どうせ他にいいこともないし新しく何かをするのも空しいのでさっさと既存の制度に順応しておこう」という面と、なんといったって、「自分で生活をつくっていったほうがいいのだから」という意志的な面があるだろう。(この意志的な面を社会適応による自立と一応呼べると思う)

こういう事情を敗戦後いち早く察知した作家に太宰治がいると思う。

 昭和二十年八月十五日正午に、私たちは兵舎の前の広場に整列させられて、そうして陛下みずからの御放送だという、ほとんど雑音に消されて何一つ聞きとれなかったラジオを聞かされ、そうして、それから、若い中尉がつかつかと壇上に駈けあがって、
「聞いたか。わかったか。日本はポツダム宣言を受諾し、降参をしたのだ。しかし、それは政治上の事だ。われわれ軍人は、あく迄(まで)も抗戦をつづけ、最後には皆ひとり残らず自決して、以て大君におわびを申し上げる。自分はもとよりそのつもりでいるのだから、皆もその覚悟をして居れ。いいか。よし。解散」
 そう言って、その若い中尉は壇から降りて眼鏡をはずし、歩きながらぽたぽた涙を落しました。厳粛とは、あのような感じを言うのでしょうか。私はつっ立ったまま、あたりがもやもやと暗くなり、どこからともなく、つめたい風が吹いて来て、そうして私のからだが自然に地の底へ沈んで行くように感じました。
 死のうと思いました。死ぬのが本当だ、と思いました。前方の森がいやにひっそりして、漆黒に見えて、そのてっぺんから一むれの小鳥が一つまみの胡麻粒(ごまつぶ)を空中に投げたように、音もなく飛び立ちました。
 ああ、その時です。背後の兵舎のほうから、誰やら金槌(かなづち)で釘(くぎ)を打つ音が、幽(かす)かに、トカトントンと聞えました。それを聞いたとたんに、眼から鱗(うろこ)が落ちるとはあんな時の感じを言うのでしょうか、悲壮も厳粛も一瞬のうちに消え、私は憑(つ)きものから離れたように、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持で、夏の真昼の砂原を眺め見渡し、私には如何(いか)なる感慨も、何も一つも有りませんでした。
 そうして私は、リュックサックにたくさんのものをつめ込んで、ぼんやり故郷に帰還しました。
 あの、遠くから聞えて来た幽かな、金槌の音が、不思議なくらい綺麗(きれい)に私からミリタリズムの幻影を剥(は)ぎとってくれて、もう再び、あの悲壮らしい厳粛らしい悪夢に酔わされるなんて事は絶対に無くなったようですが、しかしその小さい音は、私の脳髄の金的(きんてき)を射貫いてしまったものか、それ以後げんざいまで続いて、私は実に異様な、いまわしい癲癇(てんかん)持ちみたいな男になりました。
 と言っても決して、兇暴(きょうぼう)な発作などを起すというわけではありません。その反対です。何か物事に感激し、奮い立とうとすると、どこからとも無く、幽かに、トカトントンとあの金槌の音が聞えて来て、とたんに私はきょろりとなり、眼前の風景がまるでもう一変してしまって、映写がふっと中絶してあとにはただ純白のスクリンだけが残り、それをまじまじと眺めているような、何ともはかない、ばからしい気持になるのです。
引用:太宰治 トカトントン

つまり本気で何かしようとすると一切が「ばからしい」気持ちになるということである。天皇が降伏を受諾し、古い国体が滅びるのに「殉じて」死のうとする。そのことは天皇を信ずるならば立派に「お国のために」同じ行動をするという意味で、「順応」的である。しかし天皇はそういう体制が滅びるかもしれないので「耐えがたきを耐え」というのである。つまり我が臣民よ、古い国体は滅びるかも知れぬがそれに「耐え」生きよというのである。これは複雑な命令である。滅びんとする天皇が「私のために」「生きよ」というのである。

玉音放送に準じるならば、生きることも死ぬこともしないまま「ただひたすら耐えよ」となるのではないだろうか。
もちろんこれを現在の社会問題とすぐにむすびつけるのは問題だろうが、日本の国家体制が危機に瀕した時にこのような事情があったことを押さえておくといいと思う。

おそらくこの「トカトントン」という小説の主人公は、「生きることも死ぬこともしないまま「ただひたすら耐えよ」」という命法そのものに正直につまづいたため、その後生きることの味わいが失われていく。恋愛にのめりこんでも、仕事をしてもなにをしても「トカトントン」でしらけてしまう。

もう、この頃では、あのトカトントンが、いよいよ頻繁に聞え、新聞をひろげて、新憲法を一条一条熟読しようとすると、トカトントン、局の人事に就いて伯父から相談を掛けられ、名案がふっと胸に浮んでも、トカトントン、あなたの小説を読もうとしても、トカトントン、こないだこの部落に火事があって起きて火事場に駈けつけようとして、トカトントン、伯父のお相手で、晩ごはんの時お酒を飲んで、も少し飲んでみようかと思って、トカトントン、もう気が狂ってしまっているのではなかろうかと思って、これもトカトントン、自殺を考え、トカトントン
「人生というのは、一口に言ったら、なんですか」
 と私は昨夜、伯父の晩酌の相手をしながら、ふざけた口調で尋ねてみました。
「人生、それはわからん。しかし、世の中は、色と慾さ」
 案外の名答だと思いました。そうして、ふっと私は、闇屋(やみや)になろうかしらと思いました。しかし、闇屋になって一万円もうけた時のことを考えたら、すぐトカトントンが聞えて来ました、
 教えて下さい。この音は、なんでしょう。そうして、この音からのがれるには、どうしたらいいのでしょう。私はいま、実際、この音のために身動きが出来なくなっています。どうか、ご返事を下さい。
 なお最後にもう一言つけ加えさせていただくなら、私はこの手紙を半分も書かぬうちに、もう、トカトントンが、さかんに聞えて来ていたのです。こんな手紙を書く、つまらなさ。それでも、我慢してとにかく、これだけ書きました。そうして、あんまりつまらないから、やけになって、ウソばっかり書いたような気がします。花江さんなんて女もいないし、デモも見たのじゃないんです。その他の事も、たいがいウソのようです。
 しかし、トカトントンだけは、ウソでないようです。読みかえさず、このままお送り致します。敬具

このように全てに本気になれず廃人になろうとする主人公はそのメッセージを手紙にしたためて、ある作家に送る。その間にも「トカトントン」が聞えてくるのである。それに対して作家は以下のように答える。

拝復。気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡智(えいち)よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂(たましい)をころし得ぬ者どもを懼(おそ)るな、身と霊魂(たましい)とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」この場合の「懼る」は、「畏敬(いけい)」の意にちかいようです。このイエスの言に、霹靂(へきれき)を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止む筈(はず)です。不尽(ふじん)。

つまり「身と霊魂」を「滅ぼし得る」そのような勇気が君を救うという。そうなのだろうけど、この答えはかつて加藤典洋もいったと思うがあまり釈然としない。
なぜだろうか。ここで加藤は物々しい「敗戦後責任」などの論争に行くわけである。
しかし今はそのような議論は加藤もしていることであるし、一旦置くとする。「なにもできず身動きもとれずバカらしくなってしまった」ものにどのような言葉があるかと問うてみよう。

私はかつてのヘミングウェイらが戦争を経験し、帰還兵を襲った無気力や心的荒廃と似たものをみる。戦地に行かずとも、実はそのような状態になるのではないだろうか。

実際戦闘状態を直接目にせずとも、そこには新しい無力感や虚脱による一種の「さばさばした感じ」すらあるはずである。しかも日本の戦闘は様々な空爆核兵器による本土攻撃といった現代型の侵攻作戦と似た要素を持っていた。
新しい戦争のスタイルを早く日本は体験した。もちろんロンドンにもドレスデンにも空爆はあった。そしてそのことに意味は欧州においては、実存主義その他の思潮となって一定程度深く考えられた。しかしどの文明圏においても、そのことは無力感であるとともに、戦争後のある「良心」の基礎石になってきたのではないかと思う。

形骸化した「反戦平和」ではなく、新しい文明の暴力が我々の心に与えた傷はその影響をさらに強くしているのではないかと思う。
なぜならそれは適切な療養をおかず「発展」に切り替わってしまったからである。
もちろん私は経済的発展はダメだというわけではない。

我々が戦争の後に切り取ることによってしか、進めなかった気持ちが、まだそこには手付かずのまま残っており、その条件は何一つ変わらず今も荒廃と希望の両方を生み出す可能性をもっている。時代錯誤的ながら、そういいたい気もしているのである。