細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

益田勝実氏逝く

ちくま学芸文庫が出始めた頃そこに並ぶ本は20代の私にはあこがれだった。背伸びして眺めたり、赤坂憲雄氏の本を手に入れたこともある。それを思い出す。「火山列島の思想」という本があり私はそれを時々気にしていた。お金が乏しく図書館で借りたりしたもののその当時の私には著者の仕事の意味がよくわかっていなかった。その著者国文学者益田勝実氏が亡くなられた。
あっと思った。
http://mainichi.jp/select/person/news/20100321k0000m060073000c.html

そのことを知ったのは昨日のツイッター上の笠間書院さんのポストであった。笠間書院のポストで益田勝実氏の著述でCiNiiで読めるもの(一覧はこちらCiNii Articles 検索 -  益田 勝実)があると知り、早速「柳田國男・その詩の別れ」を読んでみた。http://ci.nii.ac.jp/naid/110000208280

大変感動した。柳田國男が松岡国男という名前だった頃彼は島崎藤村と並ぶ気鋭の詩人であったという。益田氏は水野葉舟氏が詩人としての柳田に大変高い評価を与えていることに共感している。新体詩つまり漢文によらない、ひとの心の表現というものを日本近代で始めた人として、柳田を水野氏は評している。
しかしその詩は長らく柳田本人の意志で著作集などにはあまり収録されなかった経緯を説明しながら、益田氏はそれをまた収録しようと尽力され、同時に収録されなかったのは本人の意志であるとしてそれがなぜなのかを考えようとする。
柳田自身がまず和歌の素養から、近代日本の詩を書いたのだが、しかしこの「近代日本の詩」が海外の詩の追随になっていったことを柳田は複雑な気持ちになりながら見ていたようだ。つまり彼は明治以前の古い心性で詩を書いていたのだがその心が古いものであるという気持ち。一方彼は農政学者として実学に打って出るが、演劇や文芸に終生強い関心を抱き続けていたこと。彼もまた近代を開きながら、近代に身を裂かれていった者の一人だったのだろう。
それは自分の中にある、いにしえからのメンタリティへの複雑な心持である。これを維持してよいか放棄すべきか。
しかし彼が松岡国男時代に書いた詩が数編引用されているのを私は大変感動して読んだ。それは形式としては古めかしい五七調である。いや感動というと強い気持ちのようだが、それはもっと静かなものである。この世を「憂し」として、どこかに帰る場所があると感じる心性を柳田=松岡の詩に感じたのである。このような瑞々しいものを彼が持っていたのを知らなかったので恥じるとともに新鮮であった。

自分にとって生れ落ちた世界は、ある意味では通過すべきある移ろいである。もちろん幻ではないし、私たちは生きる中で必ず自らを個体的存在として、かけがえのないものとしてある「責務」というようなものを持って存在する。しかしそれは移ろいでもある。幻のように儚いものである。いつか彼岸に帰るものである。
恋愛詩にもそのような心象を感じずにはおれなかった。この世界に私は彷徨いあなたに出会ったというような。あなたとは「あちら」でもあるから、人は他者に応接する時、この世界の、存在の刹那性にしかし身を滅ぼすような心に焦がされるのである。

話がずれてしまったが、柳田は晩年文化人類学の台頭により、民俗学の看板を危うくする。民俗学を学問として生き残らせるためにもにもその詩歴を表面上封印せねばならなかったのではないかと益田氏は見ている。

益田氏の言葉に接して、こんなに遅くなってしまったという気持ちと、しかし読んでよかったという気持ちがある。なぜなら詩は大事なもので儚いもので、それは近代においてその中心から外れたところでかろうじて生きてきたことを知れたからである。それは柳田の詩歴とその封印に近い行為にあらわれている。これは大切な問いだ。益田氏のご冥福をお祈りしたい。