細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

水平線も石ころも血に塗れた…

いつも大してなにかをやれているわけでもなく、ブルブルしているのだが、今日はオーバーホールの日に設定し、ツイッター三昧にした。どんどんあほなことを呟き、いろんな人や友達とお話し、マジメな話もしあれやこれやして、意外に楽しかった。
あれやこれやして時間が過ぎるのもある意味救いである。救いというのは様々なところに偏在するが、気づかなければ永遠に見えないものである。つまり気づく時にすでにそこに救いはあるわけだ。
眠いときに寝やすい場所を探す。喉が渇いて水を飲む。しかしそこに場所が、限りない宇宙が広がっている。公共とはそれであり、公民館や法律のことではない。かつて自然法と啓蒙思想家がいったのはそのことである。
それらが奪われる限り我々は悲惨である。

ツイッターは、機械の生み出す仕組みである。もちろんやりかたによっては目が疲れたりする。しかし、役に立つ時は役に立つ。どんなものでも。そうどんなものでも害になり役に立つ。アレルギーのようなものだ。なんでもない食べ物がある人には有害で、他の人にはそうではない。もちろんツイッターは人間がその知恵で作ったものだが、知恵の起源は何か。それはなんなのだろうか。ツイッターに限らない。イスも、カーテンも、水平線も石ころも。

ツイッターは面白かったが外は雨だった。風呂場に洗濯物が干した。

昨日今村仁司の本をめくっていたらこんな一節にぶつかり驚いた。

供犠は「血の流れる合理性」である。神話から離脱する過程で、人間も自然も暴力をこうむる。理性と啓蒙の発生過程は、こうした暴力を抱え込む。儀礼は一つの制度であり、社会を安定的に維持する合理的機能をもっている。しかし、この制度の生成のなかには、血の流れる合理性が伏在しているし、これを境にして理性は暴力性をその本性にすらしていくことだろう。供犠について『啓蒙の弁証法』はこう述べている。

供犠が含むこの種の置き換えは殺された犠牲者の神格化と切り離せないし、司祭たちが組織する殺害の合理的正当化が作りあげる欺瞞からも切り離せない。司祭達は指名された犠牲者の神格化を宣言するのである。

何のために犠牲者を殺し、なおかつ犠牲者を神化するのか。「置き換えのメカニズムが重要である。「司祭」を人間の自己と読み替えるならば、「司祭」による犠牲者作り(サクリファイス)は、「自己」を救い、保存するために、策略を用いて他者を犠牲にすることである。精神の内部構造に即して言えば、事故を救うためにもうひとつの自分を殺す。自然的神話的自我を殺して、理性的自己を救うのである。
供犠とは人間のうちなる自然の否定である。たしかに、これは魔術からの解放、つまり神話的世界からの脱出である。しかし同時に、この過程で、精神は犠牲作りのメカニズムを抱え込む。合理性が供犠の原理を受け継いでしまうのだ。ひとたび理性が自立するとき、理性はおのれのうちにある犠牲作りを隠し、ひいては忘却してしまう。

今村仁司作ると考える―受容的理性に向けて (講談社現代新書)より引用)

なぜかこの文章がとても気になった。自分たちは自分たちの一部を殺すことでかろうじて生きている。そしてそれを忘れている。どこかが血塗られている。その手を拭いても仕方がない。もう汚れは染み付いている。しかしその半身を殺さない方法、つまり自分自身を殺さないことで、大事な世界の経験を失わないことができる。そのためには合理性をこれまでのように小さく考えないことだ。小さく考え、守るべき「狭さ」が確定されるからそこから殺害や排除が要請される。しかしその小ささこそが我々に取り付いた罠かもしれないのである。その外に出られなくても、今日はほとんど外に出なかったが。いつもはこれでもかならず外へ出るようにしている。一度は。出なくても出ても大丈夫であればそれでいいのである。

明日は「中之島哲学コレージュ シネマ哲学カフェ「精神」上映会」http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/activity/view/429にいくかもしれない。それでは。