言葉がなる
言葉でもって何かをいうということは、多くの場合言葉の次元に移し変えないとうまく伝わらず、「わかる」ということが成り立たないことがらがあるからだ。
これは絶望ではない。それどころか言葉がないという状態を夢見る私たちの願望こそが徹底的に言葉が作り出した願望である。その願望からあらゆる悲観は出てくる。
「言葉がない」という状態は実際に多くあるが、しかしそれは実際にそうあるのであって、あえて「いわずとも伝わる」関係なり状況なりをめざすというのは二重に自分をだましていることになる。
だからといってありとあらゆる事柄を急いですべて言葉に置き換えなくともよい。なぜなら、言葉になるには時間が必要であるし、その時間はかならずやってくる。やってくる前に多くの事態は潰えるが、それも我々が意志したことであり、言葉はしかるべきときにしか言葉にならないのである。
少なくとも、あるフレーズや単語になるということはそれだけ偉大なことなのである。
ある潜在的、あるいは、広い意味での文脈に即して言葉は配置されている。
しかし私は強固な必然論を説くわけではない。まったく逆で、私たちは必要なものしか見えたり聞えたりしないが、ふだんはそのように思わず過ごしていて、どうも気づいたら自分に必要なことを意志していたという事実に愕然とするのである。