細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

無縁社会をみる

本日のNHKスペシャルにて、「無縁社会」という番組を見た。孤独死の増加する中で、その当事者「行旅死亡者」やそうなるかもしれない単身の高齢者をレポートしていた。
私の父が昔、お隣のおばさんがコタツで亡くなっていたことを発見した話や、母方の祖母が、祖父が亡くなってから急速に認知症状が出た上に、どこの老人ホームに行っても物取られ妄想が出て、老人ホームを転々としていたことを思い出した。
しかし、この番組が伝えるような「孤独死」の恐怖を煽るような構成とは逆のものを感じていた。
それは、さびしさとはちがうものであった。それは表現するのがむずかしいけれど、あるさみしいような、しかし一種すっきりした感じである。もちろん亡くなって何日も経過したら、腐敗もする上引き取り手がないなら、悲しいように感じる。だから誤解してほしくはないのだが、ただしかし死んでいった人も一瞬は誰かの記憶の中にいたのだ(誰かがその亡骸を見るのだから)ということや、あるいは、一人で、気がつくまもなく、ただ「行き倒れて」いるということであって、それはある事実性の水準で、ほんとうのことなのではないかということだ。
おそらくかつての仏教者や宗教者は行き倒れたされこうべや、あるいは多数の病者を見て修行したのだと思うが、それは、その事実を知ることで、ただまなざすことで、無意味とか意味が派生してくる前の晴朗さもみてとることなのではないか。
これは僕が、ただロマンチックなのかもしれないが、しかしそういう抜け穴があるから人は平気で生きていられるということもあるのではないか。

もちろん、殺されたか、自殺か、病死か、そういう死因は確定されることが至当なので、もっとそれをきっちりすべきなのであるが、それと同時に保持されるべきは、ただ死んでいくという過程への眼差しであるように思う。見捨てるということはいけないのであるが。そうではなく、ただそこで亡くなっているというありさまである。そして互いが亡くなってしまうという端的な事実性を、旧来の共同体の崩壊やあるいは閉塞の改善にともなって、新たな関係性のよすがとして考えることは必要である。
端的に亡くなる、死するという事実を日常の構成の中に位置づけられるか、そこが焦点のはずであり、あまりに情緒的すぎる共同性から切り離されたことだけを問題視しても仕方ない。実際に「孤立」があり、そこからひとりひとりがどう生きるかという事柄として記述され、その記述のつらなりを制度化に反映させていくべきである。
さびしいが、しかし文明や文化にまつわる思想はそこから考えられてきたはずである。旧来の宗教や葬祭、家族のシステムは、ある種の共依存(支配・被支配)かあるいは極端な自立化を目指して立てられてきた。が、人口減少、社会変動に伴ってちがう形にならざるをえない。*1というかどうしてもちがう形にしたほうがいいように私は思うのだ。そのそれぞれ固有の生をどう制度や仕組みと関係させ、逆に「自律的」な領域が確保されるか。丁寧に事実に即して考えられる必要がある。上野千鶴子の「おひとりさま」がどういうコンセプトかつまびらかではないが、仲間をつくりにくい、あるいは外れてしまう人はその視野の中についに入っていない予感もある。推測だが。
しかしこの放送のテーマは孤独死が未来や共同体の外部なので無く、平常の中にある頻発する出来事なのを曲りなりに可視化したということにある。そこでは第一発見者や遠い親類、特殊清掃業者や献体解剖室などそこにインビジブルなつながりが孤独な死者の周囲にもあることを示している。単なる孤独ではない。孤立なのだがどこかで誰かがそのひとの亡骸を見ている。

また見取るものや見取られるものの外側で、歴史にはただ誰もその瞬間をみとらず死んだ多くの死者があったのだ。それを肝に銘じること。

*1:このことは恐らく60年代後半から70年代に予想されたことであり、集団就職学生運動、都市化、都市と地方の格差、過疎化、それにしたがう地方への利益誘導型政治で田中角栄が実権を握ったことはシンクロしている。角栄は曲りなりに福祉国家の構想があったため、老人医療費の無料化を実現した。しかし高齢化率が急上昇したためその制度はつぶれた。この問題は現在に至るまで原理的には解消されていない。田中角栄は汚職事件だけがクローズアップされているが、他の面で再検証されていないのは大変な問題である。日本の福祉国家化はここで半端になり、土光臨調などで、民営化とともに福祉は自助に求められるようになってしまう