細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

死を恐がる・客観性

最近やっと自分が死ぬのをずっと恐がってたんだなと気づいた。そういう自覚すらなかった。死にたいとかそういうふうに思っていたことが多かったから、自分は死よりも生を恐れているのだと思っていたのだ。子供の頃はとにかく生きているってことが辛くてしんどくてやばかった。でもそういうことをいっても変な話になるのでいわなかったが、最近いってもいいように思うようになった。

そうすると「生きる」を肯定することが結局、「生きる」の中にある「死ぬ」までも含んでしまうことに気づいたような次第だ。

かつて幼いころから、死ぬというか「殺される」って感じが強かった。それは肉体的にというより「精神的な」死。誰に?ってわかんないけど。でもまあ昔いじめがあったとき、命の危険ていうと大げさだけど俺このままだとやばいってのは思ったことがある。心のそこにそういう怯えや不信があるのは事実で、それが自分を意識の上で追い詰めていくのだ。

そういうのが根っこにすみついていつも泣きそうな、きりきりと絞られるような感覚を抱えてきたのだなって。
つまりやっぱり「死にたくない」し「死は怖い」のだった。

そういう固定した心の枠組みや固定観念スキーマというのだそうだが、僕の先生はそういうふうにはいわなかったが、「あなたにはそういう人のきつい言葉がひどく堪える部分があるんだろうね」「そこを自覚して、そしたらそういう仕組みが自分の中にあるってわかったら、なんとかパニックになりにくくなると思うよ」といっていた。

こないだ先生がそういっていたので、自分はひさしぶりに自分の中に危うい部分があるのを思い出した。傷つきやすいといえばアリテイだけど、そうとしかいいようない。弱く、またこわばりやすい何かだ。柔軟になれずすぐ引き攣れる傷のような。

でも致命打になることは少ない。試験に落ちても借金をつくってもそれだけでは死なない。そう医師に言われたことがある。

やっぱり俺はまだ死にたくないし、まだ生きていけたらいいなと思っている。それは少しは年を取って、だんだん生にいい意味で疲れてきたのだと思う。生は元気な時は持て余すもので少し、くたびれて汚れた方がよい時もあるのだ。だからあまり観念がなくなってきたのだ。まだいっぱいあるけどね。

世の中には自分に対し、攻撃する人もそうでない人も、無関心な人も様々いる。物事の見方にバリエーションが増えて、様々な立ち位置を検討できるようになれば、今よりも苦しまず、自分の本当の実存的な感覚を味わえるようになると思う。そのために状況や自分の置かれた位置を見つめうる客観性を鍛える必要がある。

死は避けられないが不本意に死ぬ危険性は減るかな。いや死はつねに賢しらな「意図」を裏切るのかもしれないが。

客観性とは「明らめる」ことである。明らかにし、いい意味で仕舞いをつける姿勢だ。それなしに自分の主観的な経験も大事にできない。つまり主観と客観は相互補完的に自己を支え、周囲や他者との疎通を維持しているのだ。
生きるということと死ぬということとそれを媒介するものとして客観性はある。だから大病などで死を覚悟しなければいけないとかそういう差し迫った状況を除いて、「生か死か」とかそういうふうに切り口上に生活ができているわけではない。

もっと死は潜在的にじりじりとしかし常に我々に作用し続けている。そういう身近な他者、あるいは自分自身の影であるはずだ。
そういう意味で「生か死か」という選択なんてないくらい、死や病や不調はいつも伏兵として我々の生活に影響を与えている。最近そう思う。