細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

方法とアプローチ

メモとして。ソーシャルワークについて社会福祉士の通信教育や試験勉強の時から、折に触れて拝読していたcricket's eye氏のブログから参照する。
http://emanote.halfmoon.jp/emanotes/2010/01/post_217.html

ソーシャルワーク教育、特に実習教育で感じる違和感はここにあったのだなと気づかされた。
つまり、今の教育が行おうとしているのがソーシャルワークを「メソッド」として教えようとすること。
そして私がひっかかっているのが、「アプローチ」を欠いたまま「メソッド」を教えようとしていることだ。ソーシャルワークのアプローチとして何を教えるか…それが大切であることに気づかされた。

ソーシャルワーク技法と呼ばれるものがある。それは以前から援助技術と呼ばれていたものだ。それは具体的には、ソーシャルワーカーの元に相談に来た人、あるいはソーシャルワーカーがそこになんらかのニーズがあるとした人や場所に接近する時、あるいは介入する時の作法や、話を聞いたり話しかけたりするときの倫理などを総称してそういうと僕は認識している。

しかし教科書や試験ではそれは、固定された「原則」や「メソッド」として記述されることになり、「正答」なるものがあるとされる。そこが問題ではないかというのに僕も同感です。

つまり様々なソーシャルワークの場面で発見されたり、それを理論化して仮に名づけられた「受容」とか「傾聴」といった方法が、具体的な「ケース」や「メンバー」の作動の様子を失って、ただ形だけのものになってしまう。

その結果ワーカーが傾聴することが「メンバーのいうことをただじっと口をはさまず黙ってきく」というふうに変換されたり、また「受容」といいながらまさに「放置」に近い状態になることがある。

しかし重要なのは、現場で行なわれる具体的な「文脈」であり、その「文脈」の中で、メンバーの二ーズを大事にすることであったり、ワーカーがどういう立ち位置で「存在」するかということに注意を払うことであるはずだ。

ここでいわれていることは、そのいわば「人々の営み」の尊重であり、それがよりよくなるということは一体なんであるか、常に考え続けるということである。cricket's eye氏はそこを大切にしようとしていると思われる。そこに全面的に同意する。

ただ、この「プレゼンテーションZEN」という本を読んでいないので推測になってしまうのだが、メソッドを全て否定する必要はないだろうということだ。メソッドを支えるその試行錯誤や、その働きに注意を払いながら、単なる文字ではない「人の話をきちんと聴くこと」がなしとげられる必要があると僕はおもうのである。
杓子定規に黙って聞いていても、あるいはいつもいつも相手の自己愛を慰撫するだけの傾聴はやはり傾聴ではない。多くの教科書が傾聴を、「相手を傷つけない」聞き方のように解釈させる余地をもっている。しかし、(傾聴はもともとカウンセリングの技法として、ロジャースが重要視したものだが)傾聴とは、それも介入のやり方なのだ。介入による浸襲を最低限にしながら、相手に「私はあなたの話をきちんと聞く覚悟があります」という事柄を伝えるために傾聴はある。最終的にはソーシャルワーカーは、相手の援助の必要に応じて動くのだから、その必要(need)を観取するやり方である。

僕自身もこれをきちんと訓練された、あるいはできる自信はまるでないのだが、しかし相手の存在やそれが語りだす場面全体に自分を接触させる「方法」として、それ(傾聴)はあるのだと個人的には思っている。その際、心理学的に、相手に信頼される聞き方みたいなもののマニュアルも多数出ているが、そのマニュアルにしたがっていても最終的にそのマニュアルを脱ぎ捨てて、自分自身がそこに際して、ある人の傍にいあわせることを実現させることが重要だ。

ただ、しかし誰でも経験しながら、相手の隣にいるということが徐々に感得されたり、いやこうではないという動きがあるので、いきなりできるわけではないから大枠の枠組みとしてソーシャルワークはこういう方法で、クライエントやメンバーを尊重することにしていますということは教えられてもよいのではないかとは思う。おそらくcriket's eye氏は現今のソーシャルワーク教育がそのような現場で具体的に動いている知恵や方法を掬いとれていないと憂慮している。僕は教育にはたずさわっていないが、学校や試験勉強で学んだことにそう感じるところもあるので、cricket's eye氏の憂慮は理解しうるものである。

ただ自分はいきなりずぶの素人からグループホーム世話人になって、自分なりにケアや援助の方法を自前で考え、しかしそれは限界にあったたので、多くの先人達が援助技法に関してああでもないこうでもないと、考えてきた結果がバイスティック等の本で読めるだけでもありがたかった。なぜなら、そういうふうに歴史的に蓄積された知恵と自分が日々業務やあるいは、精神病になってから感じることとが通じ合う部分があったからだ。

教育や学問は「共通言語」を模索する働きである。ケースワークやソーシャルワークは日々の生活や生きている人たちに制度がどう作用するかを見つめるから、それとの緊張関係が必要なこともcriket's eye氏に同意する。どうアプローチするか。その相手は生きているものなのだから。

芸術でも、日本の多くの技芸でも「形から入る」ということがある。「形」はしかしその人を拘束しルーティーンをつくるものでもあるので、様々な現実に曝されることである自在さ、融通無碍な部分とここは譲れないという部分をバランスよく持つべきなのだと思う。ここにはソーシャルワークの現場をどのような言語で記述するか、ひとつらなりのストーリーとして考えるかというテーマもあると思う。
cricket's eye氏の記事に感謝します。