細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

日常と科学

昨日、「日常を科学することが大事なのだ」という昔大学の授業で聞いた言葉を書きました。日常や暮らしは経験や勘といったものが幅を利かせたりするものと思われがちです。
けれど、そういう部門にこそ「科学」というのは必要ではないかと思うのです。しかしどうして必要なのかその理由をたえず考えなければなりません。生活の仕方は人それぞれであります。しかしその間に学びあいがなければ、人は生きていくやり方を学んだり変えていくことはできない。
昔、知的障害者グループホームで介護をしておりました。ガイドヘルパーとして、行動援護や外出の介助をしておりました。知的障害の人もそうですが、彼らの障害によって、世の中であたりまえとされているような、例えば電車の中でじっと座っているとかができにくかったりする。そういうとき周りの人は怪訝な顔で見る。
障害は個性という観点からしたら、差別的な視線を向ける周りが問題だということになろうと思います。しかし、実は周囲の人も困惑しています。僕はそう感じたのです。端的にわからない得たいのしらないものには怖れを持つ。しかしそれだけではない。周りの人がわかっていなかったら、その人も「生きにくい」わけです。
また障害者の人が込み合っている電車の中であんまり動き回ったら周りの人の足を踏んでしまったりして余計本人も周りの人との間に不幸な理解が生じてしまうのですね。
だからそういうときヘルパーは、障害者の人がなぜそうしているのかという理由やそのあり方を考えていく。それとともに折角外出して、そのひとが遊びに行くわけだから、そういうふうに障害者の人ももちろんあたりまえに遊びにいける世の中になったほうがいいわけです。外出の援護はそういうある種の仕事なんだなと思ったのです。

障害者だけではなく、様々な人のそのやり方、エスノメソドロジーでいえば、その人の方法を「内在的」に理解することがまず大事です。ヘルパーにとって。だからヘルパーは関わりながら観察しその様子を意識化したりするのです。(参与観察)だからそこは「科学」だと思うのです。これはバイスティックのようなソーシャルワークの古典でもいわれていることです。*1

友達やその人の言っていること、行動や言葉の「文法」というんでしょうかその運用の仕方を理解することでお互いに学んでいくわけです。人間関係はそういうふうにやっていく面があると思います。もちろん仲良くなりたいという気持ちの問題でもありますが、それをかなえるためにはそこに観察し、分節あるいは分析する姿勢が必要です。
でも友達だけでなく家族では?とか職場では?となってくると、それは人間誰しもが必ず通るばしょなのですが、にもかかわらず、非常に見えにくい規則がありましてみんな苦労するのです。
僕はそういう場面にも科学というのは必要ではないかと思っています。それは他ならず自分が日常生活そのもので苦労する場面が多かったからです。ここに「日常を科学することが大事なのだ」という言葉が意味を持つ場面が出てくると思います。

科学とは私の知る範囲では、まず1.誰にでも使える言葉で(普遍的な)2.条件さえあわせれば共に同じく(協同)3.考え(思考)4.記述し5.説明することができるようになる(アカウンタビリティ)という目標があると思います。(他にもっとあるとおもうけれども)プラトンはそうじゃなかったのかもしれないですが、プラトンの師ソクラテスは「無知の知」といったわけですから、「知らない、わからないことを理解する」には「どうしたらいいだろう」ということがあるように思います。そのために「一緒に」「考える」ために言葉の「定義」や「用法」を公開で互いの間で確かめる、調べるというのがソクラテスの「対話」の働きのひとつとしてあったように思う。

知人に教員をやっている人がいるのでその例でお話します。水泳や、自転車に乗るのを想像してみましょう。私はずっと水泳が下手で「楽しくない」わけでした。子供の頃、そうだったんですね。下手で惨めだし、バカにされる。うまい子はどんどんうまくなっていく。そういうふうにして水泳のうまい子はどんどんうまくなり、野球のうまいイチローはどんどんうまくなるということがある。相当に努力したし、彼らには芸術的な部分もあります。しかしそういうふうにして、ある働きに通暁したものが多くお金をもらい、ヒエラルキーの上位にたつというふうにいつのまにかなっている。まあ世の中はそれ以外に様々な場所があるから気にしないでもよいかもしれないが、しかし多くの場所でそうなっている。それでいいのか。
というのはソクラテスがいったことを思い出しますと、ソクラテスは俺もわからないから一緒にかんがえようぜ、教えてくれといったわけです。そうしないとどうも社会でみなが一緒に生きていく意味がなくなる。そういう危機がソクラテスの中に深く感ぜられておったのでしょうけども、下手な人は人なりに、その人も変わる必要がある。しかしその人は下手としてそこに存在しているのは何か理由がある。手が動きにくいというふうな物理的な意味から、水は苦しい、苦手だ、あるいはどうも気が進まないとか。そこにも必然性がある。無駄ではない。
それぞれ内的な理由があり、しかしでも、それを共に考えて、うまい子も下手な子に教えられた方が良いし、みんなで共に考えて、みんなメジャーリーガーにならなくても良いけども、あるところまでは共有したり透明性を持ちながら、取り組む楽しみを覚えたい。そういうことを教員の人と話していると思い出すこともあるのです。

そういうのが社会や集団を生きる楽しみかもしれない。しかしそのときに、強制的に決められた方法や目標にしたがうのはしんどい。また逆にみんな点でバラバラに考えろといわれたってできない。
そういうときに、協同で研究したり考えて、自分は「こう考える」という意見や考えや方法を知らせあい考えあう機会が出てくると思う。

社会というのはただそこに静かに固定して存在しているものではない。互いがそれを変えるプレイヤーになれることがないと、あるいは自分なりの意味合いを確認しあうことができないと辛い。今のように「オチこぼれ」が大半になってしまう社会というのはどこか妙なのです。できなくても、みんなで刺激しあって試行錯誤があるならばいい。しかし停滞して、みんな努力してもしんどいとだけ思っていたら人間は生き物としてしんどくなる。かといって強制的なイデオロギーにしたがって、今までどおりの役割をやらされていくのもいやだ。となりますと、互いを理解しあうために共通言語を模索しあう働きとして広い意味で「科学」は必要なのではないでしょうか。そこには「分業」はありますが科学の精神としては、みんなで知恵を共有し、共に考える流儀ができている。そういう共に平たい場所で考えて社会を組みなおすというやり方がこの社会には圧倒的に少なく息苦しい。
しかしもちろんあまりにも専門分化した科学には多くの人がアクセスしにくい。だからエスノメソドロジーは、まだ私個人は勉強は進んでいないけれども、だからその段階ではいいにくい部分があるけれども、なにか可能性のようなものを感じる気もしています。
それは自らの専門性への懐疑の精神をもっているように思えますし、素材をあまりいじらず記述しようとする意図は感じられるからです。これは私も大事だなと思っていることです。日常生活も実は、科学的というか、様々なやり方や法則が運用され変更されできている世界だと思うのです。それは自分が介護して、ちがう生活を持つ人の暮らしの共通性と違いを知ったことや、自分自身が精神病になって自明性が壊れてそこから当たり前のことを「組みなおす」作業の中で実感されてきたことです。
自分は「文学」の中で記述の言語を磨いてきたということもあります。それは科学に非常に近いが、少しちがう営みのようでもある。ただ私の影響を受けたニーチェでもカフカでもそうですがどこか観察が確かな部分がある。あるいは分析や分節の手法に、非常に精密かつ自分のシロウト性や生の素材感を忘れない部分がある。

文学が私が孤独なときに数少ない「手にできる」方法としてありましたから。文学は記述のやり方を問題にする私が初めて知ったやりかただったのです。それは日常生活を別のしかたで見る方法でもありました。その「書く」ということが、介護のときも、病気のときも少しは役立ったのではないかと思います。しかしそれを深めるだけでなく、日常をただ静かに生きるために、日常をただ自分だけ知ったらよいとは思えない(なぜならそれは他の人とつながっているからです)ので、その日常を日々更新し変化させ、社会との通路を開くということの中に「科学」や論理の出番が実はあると思うのです。

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