細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

エスノメソドロジー

昨日は奈良女子大学で行なわれた「エスノメソドロジー研究のフロンティア」に参加してきました。→2010-01-10 - 呂律 / a mode distinction

僕は社会学の研究者でもなく、ただこのシンポジウムが教育や医療、児童福祉を題材にしていたため何か自分にとっても得るところがあるのではないかとおもって参加しました。
どうも参加者の多くは、エスノメソドロジー社会学の研究者であるようで、ソーシャルワーク資格と雑多な知識しか持たない私には、そこで使われている術語の細かいニュアンスがわからず、もう少し自分で掘り下げないといけないなと思ったり。
ただ、彼らも取材ないし、参与観察者として学校現場や、福祉、医療現場に入るときも、ある意味そこへの詳しい知識を持たないものとして入っているようです。そういう意味ではさしづめ私もどこか、外部のものとしてこのシンポジウムに参加していたようです。

けれどもエスノメソドロジーという言葉は、現場で人々が使い、共有し、作り出している「方法」や仕組み、「働き」(ワーク)を意味しているようです。ならば、これは自分たちの生活にどう関わってくるものなのか、そう感じました。
学者や研究者が使う言葉や文法や振る舞いが、どういうふうに取り決められ、何のために僕らの日常を取材しようとするのか、そこらあたりを聞きたかったけれども、まだ自分もこの学問がよくわかっていない部分もあり、その日はひととおり発表とディスカッションを聞いて帰ってきました。

しかし僕は昔大学の頃、文化人類学の授業を取っていて、中川敏さんという人が「日常を科学することが大事なのだ」とか「説明と解釈はちがう」ということばを思い出しました。
実は日常の生活は様々な取り決めが存在しています。しかしそのことはそれほど明示されていない。するとある場合には人の参加を難しくする障壁にもなりうる。日常をズタズタに科学的対象にしてしまうのではなく、多くの人が参加しやすい形で、一定程度一般性をもったやり方で日常性の「働き方」を包括的に取り出せないものか。そういうことを中川敏さんのことばを思い出しながら、シンポジウムを聞いていました。そんな思いは僕にもあるのです。

またこのシンポジウムでも「評価」「記述」「説明」などの言葉が問題になっておるように感じましたが、シロウト考えで行きますと、何のための、誰のための、誰にとって大事な「記述」や「説明」や評価であるかという、価値論的な側面や、ある種倫理的な問いがあるようにも思いました。しかしこういうのも、あまりその世界がわかっていないのでうかつにはいえないのかもしれないですが…

今日は昨日シンポで登壇したかたの幾人かが書いておられるエスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)を買いました。また昨日いきしの電車では折口信夫歌の話・歌の円寂する時 他一篇 (岩波文庫)を読んでいて大変面白かったです。古典歌謡の入門書ですが、折口の語りには迫力があります。